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映画「風立ちぬ」に登場する乗物達

今日9月6日、宮崎駿監督が「風立ちぬ」を最後に長編アニメから引退するとの記者会見がありました。今後は自由に活動するとの事。自由というのはいいですね。なにものにもとらわれず大空を舞う。理想です。

さて、話は「風立ちぬ」に戻りますが、物語の内容はいろいろな人たちがそれぞれの立場で感想を述べていますし、ご自分が実際に映画をご覧になって宮崎駿さんの投げた球を受けるのがよろしいのではないかと思いますので、ここでは映画に登場する乗り物について話をしたいと思います。主役は紙飛行機を本物にしたようなシルエットの九式単座戦闘機や零戦ですが、脇役として幾つかの機関車や飛行機が結構重要な役回りを演じていますね。

技術の舞台は日本、ドイツそれとイタリア。

堀越二郎や里見菜穂子が関東大震災に襲われた時に乗っている客車を牽引している8620型の蒸気機関車。列車は2等車と3等車が連結されていましたね。3等車は庶民、2等車は今のグリーン車クラスで、ハイクラスの人たちが乗車していました。二郎は2等車、菜穂子は2等車。ここでそれぞれの立場が分かります。学生は清貧が美徳の時代でしたね。
IMG_2362_3_4_tonemapped.jpeg

二郎が会社の仲間とドイツに訪れたときの列車を牽引していたのはドイツ鉄道の代表的な機関車BR18 (S3/6)。4気筒の機関車。
BR18 Screen
上記2種類の機関車を並べてみた場合、8620型機関車は日本が1914年に国内生産(基本は外国製8550のコピーのようなもの)した初めての小型機関車で速度は95Kmであったのと比べてドイツのBR18は1908年製造されもうすでに時速120Kmで走っていたのです。このように日本の技術はまだまだドイツに追いついていなかったことが分かります。このような背景をみると、高額の費用を負担してドイツに優秀なエンジニアを派遣する必要があったことがわかります。

二郎が軽井沢を訪れたときの碓氷峠を越えるアプト線とめがね橋。この機関車もドイツからの輸入品。
800px-JGR-10001-EL.jpg
IMG_4580_1_2_tonemapped.jpeg

ドイツの工業力の象徴として描かれた飛行機。ドイツのユンカース社G-38。主翼のなかにも人が乗れる構造。全体を当時最新のジュラルミンの波板で覆われていた飛行機です。映画と同じく、実際も三菱によって日本でライセンス生産されました。製造工場の横に滑走路のあったドイツに比べて日本では完成した飛行機を牛が滑走路まで運ばなければならなかった、この大きな違い。そこを克服して列強に引けを取らないあるいは凌駕する性能を持った飛行機を作るといういわばミッションインポッシブルな要求を堀越二郎をはじめとする若いエンジニアは請け負ったのでした。
8cf1b09e[1]

カプローニの飛行機(Ca-60)
少年時代の堀越二郎がカプローニの夢のなかでみた大西洋横断を目論んだ飛行艇。実際に存在したのですね。物語と同じようにうまく飛び立てなかったようです。実質本位のドイツの堅牢な技術に対比してカプローニの飛行機は夢を実現してくれる全く違った世界を示しています。
CaproniCa60.jpg

そうそう、話は乗り物から離れますが、里見菜穂子がスケッチしている姿を見た時、クロード・モネの日傘の女を思い出しました。青いそらに傘を持った婦人。キャンパスはありませんが菜穂子ですね。
d0241407_2161379-1.jpg  クロードモネ日傘の女 のコピー 

また印象に残った絵の一つ。暗い廊下を歩く菜穂子の花嫁姿。表情に芯の強さが垣間見えるのではありませんか?
           hanayome.jpg

相当前に書いた「紅の豚」に関するブログ → 紅の豚




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「栄枯盛衰の経済理論」ってあるのでしょうか。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

平家物語

上記は殆どの人が知っている平家物語の第一巻の書き始めの言葉ですが、平家にかかわらず物事には必ずはじめがあって終わりがあるという誰も逃げられない運命と言うものがありますね。これは当たり前の話ですがそのときそのとき瞬間ではあまり認知していないというのが一般的ですね。明日が今日に延長でいつまでも続くような錯覚。

最近経済界でもいろいろな興亡がありますが、とくに先端技術を応用した製品のライフサイクルがどんどん早くなって来ていると感じます。

下図をご覧ください。5年前の携帯電話のメーカー別シェアが示されています。
携帯シェア

さて、それがここ5年間でどのように変わっていったか。

そのまえに、下記の写真を見てください。左がNokiaのスマートフォン、右がおなじみのiPhone。
nokia-n9-family.jpg iPhone.jpg
この2枚の写真は興味深い物語を示唆していますね。ノキアの写真はノキアの製品。ノキアの顔が見えません。所謂ハード機能そのもの。アップルはiPhoneというよりはSteve Jobsが象徴的。ノキアは製品を売ってアップルは使い方を売ったのですかね。勝負の舞台が違うという事でしょうか。

さて勝負はどうなったか?もうご存知ですね。
携帯シェア推移

2007年2QではNokia(ノキア)が60%以上のシェアを持っていてほとんど何もなかったAppleが2011年Q4では75%近いシェアをとってしまい、ノキアのシェアは殆どなくなっていますね。この間はたった5年です。新しい製品を考え、工場を企画して完成してそこから商品が出て行くまでは数年かかります。この推移を予測して前もって手を打っていてもシェア奪還に間に合わない事請け合いです。ノキアは無能な経営者によって運営されて来た会社ではないはずです。マーケティングなどもしっかりおこなわれていると思いますし、それを支える技術も確固たる物を持っていると思います。しかしながらアップルに市場を奪われていったのはなぜでしょうか?

ノキアはよく顧客の要望を聞いて製品を作り込んでいったのではないでしょうか。アップルはそれと反対で、あまり顧客の事を聞いていた気配がありません。自らの感性をもとにビジネスモデルを創ったのではないでしょうか。その結果、顧客が思いもよらなかった使い方がCOOLに思えたのでしょう。

一方今は安泰でもSteve Jobs亡き後のAppleにしてもこのまま我が世の春を満喫できる時間がどれ位許されているのか?誰にも分かりません。我々はこのような世界にいるのですね。昔は会社の寿命は50年位と言われていた時代もありました。それにくらべて5年の劇的変化は我々の働く時間に比べてもかなり短い、つまり何を拠り所にして仕事をしていくかが今後大きな課題になってきます。

さてここからが本題なのですが、なぜこのようなことがいろいろな分野で起こりつつあるのでしょう?人情として栄えている時間はずーとそのまま続くのがいいに決まっているのだしその延伸の努力をどのようにすべきなのか。結果としての失敗例が上記のノキアのケース以外にも沢山あります。銀盤フィルムの巨人コダックの凋落と富士フィルムの華麗なる転進、最近の日本半導体メーカの苦戦とサムソン、などなど。それではアップルや富士フィルムはなぜ成功したのか?会社が新しく変化について変わっていけたからなのか?これは経営者の慧眼によるものなのか?全然別の切り口もあります。前述したようにこの戦いに参加している会社の経営者は決して馬鹿ではありません。それなりに高レベルな賢さを持っていますよね。社内の競争を勝ち抜いた勝者でもあるのですから。経営者の能力だけで大差がつくような事にはならないと考える方がもっともらしい。したがって成功者と失敗者の微妙な違いは、先日述べた「たまたま」という本についての考察がありますが、経営者の能力に関わらずたまたまいい環境に入ったので成功したのか?たまたま外れてしまったので失敗したのか?

もし会社が身軽な体質ならば、サーフィンに例えて海面のたまたま発生するいいビジネスチャンスを捉えてその上を波乗りし続けていくのが成功する処方になってしまうのか?其の反面、石の上にも三年という達磨さんの教えを是とするような重厚な産業においての変遷などとのような折合いをつけるのか?

このような技術製品の栄枯盛衰メカニズムを分析した本にハーバードビジネススクールのクリステンセン教授が著した「イノベーションのジレンマ」という本があります。この本はとくに先端技術が拮抗するであろう産業で革新的な技術が従来技術を凌駕して同じドメインのビジネスの主導権を奪っていくという事象例を分析しています。必ず優等生的な仕事をしている会社が陥るかもしれない罠が書いてあります。罠に陥る会社とは、たとえば新製品を開発することによってどれだけ市場を占有できるかなど、綿密に調査した内容に従って開発予算と項目を決めているような会社の事です。つまり所謂エクセレントカンパニーと呼ばれている会社がかえって技術革新がドライブする市場では凋落の可能性が高くなるかもしれないという理論を提唱したのです。出版時は大きな関心が寄せられた書物です。

しかし未来にどのようなことが発生するかをミクロの視点から予測する事はされていません。何が過去におこったかはよく分析されていて今後も同じようなことが起こるという事も分かりますがあくまでそれはマクロの話で、本当の意味で其の理論を使いたい個々の会社でのミクロの予測が出来ないのですね。クリステンセン教授もこの本の続編を書いていて予測の域に挑戦をしていますが、この本に書かれている分析の鋭さに比較して予測はやはり矛先の鈍さを感じます。やはり「たまたま」理論が当てはまるのでしょうかね。

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)
(2001/07)
クレイトン・クリステンセン

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もう少し深層のところになにか基本的なモメンタムを起こすためのマグマのような運動力があるのか?いまの経済ダイナミックスを研究してる理論は皮相的な現象を追っているのにすぎないか。なかなか疑問は晴れません。私個人の考え方としてはこの記事の始めに述べたように物事には終わりがあるのに、其の終わりを想定していない、疑似継続願望とでも言いましょうか、明日が今日と同じという瞬間瞬間しか考えられないという我々の性(さが)がこのような予測できない負けの現象を引き起こしているのではないか?とも考えられるのではないでしょうか。全ての起こりうる事柄を前提にしてそれに対処する経営方法など求めてもないのかもしれませんね。経済法則よりはもっと厳密な数学の世界でもユークリッドやビルベルトが公理から出発してすべての問題を証明できるという考え方を持っていましたが、ゲーデルが全ての問題を証明できるとは限らないという不完全性定理なるものを出してしまったのですから。

さらに平家物語のように、このような変化はたんに春の梅や風前の塵のようなもので大きな自然の営みの中では大事なことではないのかもしれぬと悟ってしまうのか。このテーマはもう少し今後も掘り下げていきたいと思っています。







松岡正剛さん:千夜千冊と1330夜の本「たまたま」

松岡正剛さん:
いきなりですが、松岡正剛という人はすごい人と思います。人には経歴という肩書きを述べる事によって時として権威らしく響くようなところがありますが、松岡正剛にはそのような肩書きは必要ありませんね。彼の読書評『千夜千冊』をそのまま受け入れればどのような人かを推し量る事は誰にでも出来ると思います。
松岡正剛ものを書くという事は創造を担うという事で大変素晴らしい仕事ですがその書かれたものを読み込んで鋭く作者以上の世界に引きずり込む書評を描く事はそれ以上の創造力が必要かもしれません。松岡正剛の仕事っぷりを見るとそれを実感します。読書は多技にわたっていて物理学、心理学、歴史、小説、論説など向かうところ全く境界線を感じさせません。2000年中谷宇吉郎の「雪」から始まった千夜千冊の執筆は千冊目の「良寛全集」で一応ゴールに達しましたが、病気療養の後に1001冊目から執筆を再開し、2012年現在も1470夜を経て継続中です。継続させるという事もそれのみに着目しても尊重されなければならない事だと思います。それも各著書についての著述が4000文字程度でまとまっているとは。
ところで彼のサイトのリンク先を示します
http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/table_list.html

松岡正剛は仕掛人でもあります。丸善丸の内本社の一角に松丸本舗という書店内書店をプロデュースしていてそこに一歩はいると松岡正剛の世界が広がるような仕掛けがあります。本屋というのはジャンル分けに整然と本が並び端正なショーウインドーの趣きがありますが、ここは違います。まるで本のジャングルに入ったよう。というか誰かの書斎に紛れ込んだ気分を味わうこと請け合いです。子供のときに廃工場に放置された錆び付いたポンプや工事現場後に置かれたひび割れた土管のなかを興味本位で覗くようなわくわくした好奇心が時空を飛び越えて脳裏に刺激を与えるようです。理屈や知識ではなくこれは何だろうという無意識におこる好奇心のようなものをくすぐる仕掛けをさりげなく実現している松岡さん。なかなかの人物です。
松丸本舗 松丸本舗2
松丸本舗のホームページ。


本や知識の集め方は今や検索の世界が主流になっています。iPadのライブラリーにしたって仮想の本棚に整然と電子書籍を集めるだけではないのかな?キーワードで欲しいものを調べる。それが見つかるとそのサイトにいって情報を得る。これらの作業は何となくクローズドループを駆け回っているような気がします。このプロトコルだと新しい発想が出てこない感じですね。それとは違って何の目的もなくネットサーフィンをして面白いものを見つけるとそれを検索する。これはオープンループで自分でも思ってみなかった事に邂逅する可能性があると言えます。まさしく松岡正剛がその著述や上記の松丸本舗で具現化しようとしている事はこのような遊びを意識しているようです。書籍と頭がハーモナイズするような世界を築いているのですね。松丸本舗にはその舞台装置が至る所に設けられています。

私がブログを書くときに少なからずも松岡正剛の千夜千冊が影響している事を正直に告白しなくてはなりません。時々その内容に関わる事柄を参考にさせてもらったこともありました。千夜千冊では、ロジャーペンローズの「皇帝の新しい心」は第4夜に取り上げられているし、この難解な書物をはっと晴れるようにわからせてくれる記述があります。第67夜では朝永振一郎博士「物理とは何だろうか」にかんして、松岡さんが発した言葉に対する朝永先生の優しくも深い言葉を書き留めているし、第284夜の「ご冗談でしょうファインマンさん」ではなんと松岡はリチャードファインマンに実際に会いにいったときの話をしている。少し引用しましょうか。
ぼくの最大の質問、「なぜあなたはあんなにすばらしい教え方ができるのか」をつづけた。そして数時間がたったとき、ファインマン先生はぼくに最後通牒をくだした。「科学はおもしろいものです。そうでしょう。ぼくは人をおもしろがらせるのが好きなんですよ、セイゴオ!」。えっ、答えはそれだけなの? そしてこう言いたくなっていた。ご冗談でしょう、ファインマンさん! やはり直接会ってはなしをしないとこのような事は言えません。

さて1330夜に読まれた本、「たまたま」を私なりに取り上げてみたいと考えました。
英語のタイトルは「Drunkard's walk」直訳すればすれば飲んべえの歩み:千鳥足という所でしょうか。これを「たまたま」という題名をつけた事も面白いですね。副題は曖昧さ(ランダムネス)が我々の生活を如何に左右するか?です。松岡正剛さんは松丸本舗発足に当りこの本の題名を「今週のタイトルベストワン」に選んだそうです。著者は昔カルテックでファインマンさんに物理学を学んだレナード・ムロディナウという人。この人は象牙の塔の中で暮らすというよりは寺山修じゃないけれど書を捨てよ街に出ようと言う感じ。書は捨てなかったけれども学問の探究にとどまらなかった多芸の人だったようです。大学を離れてから物理学や心理学を学び論文を出していたとか、それだけにとどまらなかったのは筋萎縮症で車椅子で有名なホーキングをたきつけてBrief History of Time:邦題『ホーキング、宇宙のすべてを語る』という本を出してベストセラーになったとか、恩師のファインマンの「ファインマンさん最後の授業」等という書物もものにしています。最後の授業ではファインマンさんの近くにいた経験を古に活用してファインマンさんの人間らしさを見事に表現しています。

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学するたまたま―日常に潜む「偶然」を科学する
(2009/09/17)
レナード・ムロディナウ

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Dices.jpgさてこの「たまたま」の内容は掛け値無しにおもしろいですよ。ギリシャ人の確率の考え方、ローマ人キケロが最初に使ったプロバビリスが確率(Probability)の概念の根源になった事、パスカルの話やガリレイのギャンブル論などいろいろな物語や確率についての考察が述べられています。常識として今確立されているDNAによる個人鑑定についても一石を投じる話が展開されています。

詳細はネタバレになるのでここには述べませんが、確率の危うさや一般的に信じ込まれている事に関するアンチテーゼなど。常識にとらわれない見方から偶然について論理を広げています。この本は曖昧さの考え方が如何に現実のものの見方と乖離しているかを明らかにしようという魂胆が見えますね。目次の作り方も人を引きつけるような表現を採っています。その中の幾つかのテーマをここで述べたいと思います。

平均回帰の問題。
怒鳴れば上達するという直感的な誤信
飛行機操縦の教官が言うのには「褒めるより、怒鳴れば研修パイロットはいい成績を残すものさ」という言葉があったとしましょう。彼はこれを間違いなく信じています。現にそのような経験をしているので。しかしムロディナウは説明します。これは平均回帰の理屈で説明できる。研修生はそれなりに操縦に関しては日頃の練習をおこなってあるレベルに達している。素人が操縦している訳ではない。このようなケースでは平均回帰ということが起こる。操縦がうまくいくときもあれば少しまずいときもあるが、その平均を取るとある一定のレベルをキープしていると考えられる。さてうまくいった場合はその後は平均回帰のおかげでうまくいったようには行かなくて少しレベルが下がることもある。また駄目なケースでも平均回帰にしたがってその次は平均のレベルに戻る(別の言い方をすれば改善する)と考えられる。褒めるときはうまくいったときなのでその次は多分その結果は良くない方向に進みがちで、教官から見ると褒めごたえがない。駄目なときは怒鳴るので次は平均に向かって(改善)するので怒鳴りが有効と感じるだろう。この教官は自分の主観から上記のような事柄を信じてしまったのですね。このように物事はよく観察していかないととんでもない誤解や誤信が生まれる可能性があるのですね。

下記は日経平均の回帰曲線です。基本的には右肩上がりですが、実際の平均値はこの回帰曲線を上下しているのが分かります。平均値を実際に示すデータは少なくとも必ずそのような回帰曲線に沿って実際の経緯は進むのですね。
Nikkei-thumb-400x239.jpg


モンティ・ホール問題(Monty Hall Problem)。
これは確率論を述べるときに、数学者も見事に誤答してしまったという有名な話です。この話はベーズ定理による事後確率の一つの例題として考えられるときがあります。

まずゲームのルールを説明しましょう。
1)3枚の扉が回答者の前にあります。その中の一つにアタリであるマセラッティーの車があるとします。後の2枚の扉の後ろはハズレです。
2) 回答者が扉の一枚を選びます。
3) どこにアタリがあるかを知っている司会者は回答者が選んだ扉以外の2枚のうち1つの扉を開けます。そこはハズレです。
4) 司会者は回答者に質問します。「扉を変えますか?それともそのままにしますか?ファイナルアンサー?」

さてここからが問題です。質問は「扉を変えない方がいいのか?変えた方がいいのか?」

これはモンティホールという司会者が取り仕切っているMake a dealという番組のゲームなのですが、この質問を日曜ニュース雑誌「パレード」の新聞コラム「マリリンに聞け」に投稿されてから一大事件が起こってしまいました。マリリンが答えた内容が多くの人の考え方と違ったのです。

Marilyn vos Savant左の写真はマリリン・ヴォス・サバント(Marilyn vos Savant)。マリリンという女性はIQ228の持ち主としてギネスにも載っているコラムニストで彼女の答えはいつも的を得て大変人気のあるコラムニストなのです。それがこの質問に関しては「間違ってしまってマリリンももうこれまでか」という話になってしまったのです。番組は今も継続中です。番組のホームページ(英文)はASK MARILYN
さて本題ですが、彼女の回答は「変えた方がいい」でした。これが大きな騒ぎになりました。ある数学者は扉が一つ開いたのだから正解は2つの扉のどちらかにある。したがって変えても変えなくても勝てる確率は50%-50%であるというものでした。さてその結果はといえば、まさしくマリリンが言った通り扉を変えた方がこのゲームに勝つ確率が2倍になるという事でした。


この話を著者のレナード・ムロディナウは次のように説明しています。まずはじめの段階、つまり解答者が3枚の扉を選ぶ段階ではその一枚を選び中にアタリがある確率は1/3であり、ハズレである確率は2/3になる。しかし次の段階、すなわち司会者が残りの中からハズレの扉を開ける場合は純粋にランダムの動作をしているのではなく作為のある行為をしたので、ランダムネスは崩れてしまう。司会者の行為をケース分けにすると
1) 解答者が選んだ扉が正解(アタリ)の場合、司会者は残りの扉のどちらでも無作為に開ける。扉を変更しなかった解答者はめでたくアタリを得ることができるが、変更するとはずれをつかまされる。
2) 解答者が選ばなかった扉、扉2としよう、がアタリの場合は司会者は扉3を開ける。
3) 解答者が選ばなかった扉の扉3がアタリだったら司会者は扉2を開けるであろう。
4) ここが重要なのですが、解答者が変更した場合は上記2の場合でも3の場合でも解答者はアタリを獲得することができます。
つまり2/3の確率でアタリを獲得することができるのです。もちろん変更しなかった場合は1/3の確率ですから変更した場合は変更無しの場合に比較して2倍の勝率があるのです。司会者がある恣意的な行為をおこなう事によって最初の確率の条件から次の確率条件が変わってしまう事を取り扱うのが前述しましたベイズの定理です。

ゲームを実際に体験できるホームページがありました。下記の図をクリックしますとゲームを楽しむことができます(New York Times)。ある程度回数を重ねるとどうもマリリンが言っている方が正しそうだということが分かると思います。

Monty-Hall Game Simulation IMG

またシミュレーションでも答えを出すことができます。統計ソフトRでの計算。回数は100,000回のプレイ。プログラムを簡単にするためにプレイヤーはDoor1を選ぶとします。その事によって一般性が失われる事はありません。下記にプログラム例と結果を示します。
R Program and Results
青字がプログラムで黒字がその結果です。ドアをスイッチした場合は33297回がはずれ、66703回が当りになっています。逆にドアを変えないと66703回がはずれ。33297回がアタリになります。ちなみに司会者の思惑を入れずにランダムにドアを開けるとまさしくハズレが50174回とアタリが49824回になりほぼ1/2-1/2になります。

ランダムに関する客観性と主観性。

乱数というものは本当にランダムに出てくると面白い現象を見ることがあります。我々が常識で考えられる順序と本当のランダムな状況とは本能的に違うように思われる場合があります。

一例を挙げます。下記は小数点20桁までの0-1の間の乱数です。
0.04586125149514998158    0.12416348419537998999
0.82991642802242301840    0.86993209429479038931
0.77875516631228120727    0.31505642303668700929
0.99825103832748557244    0.99762532379183434110
0.39961142546087171892    0.45337411213468249309

上記の右最上部の数字を見てください。15桁から20桁までは998999と並んでいますね。このように乱数列の中には同じ数字が幾つも並ぶことがあります。全く偶然のなせる仕業なのですが。実際にこのような場面に出くわすと人は何かの理由をつけてその事象を語る傾向にあると言えますね。例えばこの9が続く間はなにかバイオリズムがあってこの局面では大きい傾向が出るとか何とか。面白い話にIPodのランダム再生の機能がありますが、ある顧客から2度同じ曲が再生されたというクレームがアップルに寄せられたとか。Steve Jobs曰く「我々はそのランダム再生に少し手を加えたのさ」。これはもうランダムではないのですね。

エピローグ。
途中から最後まで読むと著者の目論見であるかどうかは分かりませんが、こちらが千鳥足になってきそうな、目もくらむような内容になっています。この本を確率論の説明ないしは解説書と期待するとそれは裏切られることになります。確率という概念を伏線にして、目の当たりにしている事象を思い込みなくどのように解釈していけるかという一種の心理学的な説明になっているのではないでしょうか。このような見地から目の前で起こっている事象をよく見ると今までいろいろな理屈をつけて説明して来た事が、待てよということになるのでは。

再び松岡正剛の千夜千冊。
それと松岡正剛さんの話に戻りますが、私は上記の「たまたま」の本の感想を10日以上かけて書き込みました。本書は結構読み解くのに時間がかかりました。それを反芻して自分なりの考え方を述べるとなると... それを当然のごとく私以上に幅広く深読みしてそれを凝縮して4,000文字の言葉で表してしまうなんて。松岡さんの1330夜を読むと理解できますが、そこにはこの本のみでなく、いろいろな本が紹介されていてそれが縦糸と横糸になりつぐみ合いながら一体化して、その上にこの本の特徴が浮き出ているという景色になっています。またそれを年間で100冊ぐらいのペースでやってのける卓越した文章生成力、強力なエネルギー、膨大な関連知識に完全脱帽です。



富とは何か、富の配分について

ちょっと気になるサイトがありました。サイトの題名は  How rich are you? 

これは世界中であなたはどれ位の金持ちか?というサイトです。ホームページには次のような画面が出てきます。
How rich are you?

年収を入力して Show me the money?をクリックするとあなたが世界中で何番目位の金持ちか順位が出てきます。それと世界人口の中で何%位の位置なのかも出てきます。日本円でも入力できます。日本の平均年収の数値400万円を入力しますと、、281,008,696番目と出てきます。またその値はTOP4.68%だと分かります。
400万円

400万円の順位

年収を1,000万円位の高額にすると44,670,517番目でTOP0.74%にはいります。世界中では全く貧困な人たちが大変沢山いて富の配分がけっして平等ではない事がよくわかります。生まれてくる国や環境によって人々はその産声を上げたときから人生の生活状況が決まっているという厳然たる現実がここにあります。

上記の注意書きには下記のようなコメントも書いていますね。
- もし8ドルがあれば有機栽培のリンゴを8個買えるが、ホンジュラスで25本の果実の木を植えて農家が果物を販売する事も可能になる。
- もし30ドルがあれば、DVDを購入する事が出来るが、ハイチで救急セットを買う事も出来る。
- もし73ドルあれば新しい携帯電話を買うことができるが、ウガンダで孤児のモバイルエイズ診断が出来る。
- もし2400ドルあれば次世代のハイビジョンTVを買えるが、アンゴラの村で子供達に教育を施す事も出来る。

この計算の基になった人口とそれぞれの人々に配分される富の分布を下記に示します。
World distribution of money

このサイトは世界の飢餓や病気など極貧に喘ぐ人たちを救う目的で作られたサイトで義援金を訴えるものなのですね。しかしこの状況を見ると決して全ての人類が平等であるとは言えない現実を目の当たりにします。

一方見方を変えると違う側面が出てきます。個人の豊かさの問題はそれぞれの国の経済的事情により、お金の絶対値のみでははかり得ないところはあります。アメリカで最下位に位置する人たちの収入は、しかし世界を眺めるとけっしてものすごく低いわけではないでしょう。しかしアメリカでも極貧に苛まれている人がいる事も事実です。未だに国境とそこに暮らす人々の生活は大きく関係しています。そこで次に考えるのがそれぞれの国の内部の状況です。

経済でGini係数という貧富の差を表す指標がありますが、各国や地域別の一覧を下記に示します。米国CIAが調査した情報です。欧州やカナダなどは比較的小さくてアメリカ、中国、ロシア、南アフリカ、とくにナミビアなどは相当ひどい貧富の差がある事が一目瞭然です。自由主義であるアメリカは多分貧富の差が大きくなる傾向はありますが、富の再配分を是としたプロレタリアート興隆を掲げる共産主義の国、ロシアと中国でも貧富の差が日本などよりも大きいというのはどういう事でしょうか。
Gini_Coefficient_World_CIA_Report_2009.png
主な国別のジニ係数をグラフにしたのが下記の図です。日本のジニ係数が大きいか小さいかはいろいろな要素を考えなくてはならない所です。
国別シ#12441;ニ係数

日本のジニ係数の推移を調べてみました。厚生労働省のホームページにこれらのデータが公表されています(厚生労働省: 平成20年所得再配分調査報告書)。ここではまず所得別の世帯数の下図をグラフにしたデータがあります。そこに社会保障費と税金という再配分処置を含めた後の所得別世帯数分布データをあわせて表示します。ここで報告されているデータはCIA報告とは違っています。指標の取り方が違うのかもしれません。

年収別世帯数分布図 年収50万円から800万円以上まで50万円ごとに区切ってそれぞれの範囲の中に何世帯の人数がイルカを調べたデータです。青色のデータは生の収入ベースで考えた場合の分布。赤のグラフはこれに税金、社会保障、医療補助などの要素を加えたあとの分布です。50万円のひとは年金などで補助が出て実質的な収入は上がり、元々収入の多い人たちは税金を払って最終収入が少なくなります。所謂富みの再配分がおこなわれるという事です。
年収別分布表

下のグラフは1996年から2008年までのジニ係数の推移を示したものです。当初の所得に関してはジニ係数が大きくなっていることが分かります。再配分後のジニ係数はさほど大きくなっていません。
日本シ#12441;ニ係数推移

下記の表はジニ係数をどのように解釈するかを説明したものです。極端な場合ジニ係数が0だと全ての人の収入が全く均等に割り当てられているという事で、ジニ係数が1という事は国民の中で唯一1人の人が全ての富を握っているという事を意味します。
シ#12441;ニ係数解釈

1980年から1990年あたりは当初の所得の格差があまりなく国民一億総中産階級であると感じていました。
これらのデータから理解できる事は税金も社会保障もない状態での貧富の差は年を経るごとに大きくなっていきますが、今のところ社会保障と税金(や医療補助)の再配分効果により再配分後の貧富の差はかろうじてジニ係数からみても通常レベルに保たれているといえます。ただし老齢化が進み社会保障費、医療補助の減少が更に必要となり低所得者の税金収入が少ないまま推移すると再所得配分効果が少なくなり、実質的なジニ係数が増加していくことになりそうで、実感として富の差がひしひしと感じられるようになっていくようです。

いままでは日本ではそれほどの貧富の差がなく一億総中流という意識がありましたが、社会保障や税金の再配分効果が少なくなって実収入がもろに表(おもて)に出てくるようになると、これからは中産階級という概念がなくなっていきその結果待っているのは貧富の二極化とも言われています。なんだか憂鬱になる状況です。

富の追求が即心の豊かさにつながっている訳ではありませんが、効率第一の考え方が畢竟行き詰まる可能性も上記の数字の推移から読み取れるかもしれません。今後は人口の縮小、人口分布の調整、清貧の心構えなど今までとは違うスキームの事を考えていかなくてはならないかもしれません。変化を受け入れる事はつらい事ですがね。。。



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