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古寺巡礼:奈良法隆寺

今回は斑鳩の里の古寺巡礼。ここには日本最古の木造建築である法隆寺があります。法隆寺といえば厩戸王(後日聖徳太子とよばれた)が居住していた斑鳩宮の跡地に建てられたお寺。したがって太子ゆかりの寺として有名ですが現存する伽藍は再建されたものとされています。日本書紀によると聖徳太子時代には斑鳩寺とよばれていた本来の法隆寺がありましたが、それが歿後、670年に焼失しその後再建されたと述べられています。この再建の話は学会で論争があり、年輪年代測定法による使用木材の伐採時期や、建築様式論的な話を根拠とした非再建論もあったのですが若草伽藍の遺跡が発掘されて以降法隆寺は再建されたという一応の解決を見ています。若草伽藍は大阪の四天王寺と同じく塔と金堂が南北に一直線に並んだ形になっていたそうです。有力な説として新しい法隆寺伽藍は斑鳩寺と重複して作られていたのではないかという可能性も示唆されています。この話が後述する興味深い説を導いています。再建された時代(あまりはっきりと日本書紀には書かれていませんが大体700年ごろと推定)から見ても日本最古であることには変わりがありません。

和辻哲郎の古寺巡礼、法隆寺の記述。
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中国、朝鮮半島にはまだ古い木造建築があったことはたぶん事実だと思いますが、幾多の戦や転変地異で失われてしまいシルクロードの終点といわれる日本の法隆寺が幸いにも残って世界的に最古になったのでしょうね。
日本の仏教建築は仏教と同じく西方から伝わったと考えるのが常識的ですが、建築様式はそのまま持ち込んだのではなくて日本独自の多雨、高湿度の気候などを考慮して工夫をしたと思われます。木材も1,000年の樹齢をこえる日本産のヒノキが使われ(ヤマトはヒノキの豊饒な産地であったようです)、軒の大きさも中国のものに比べて大きくなっているなど、そのような経験が創建1300年経過してもびくともしない建築をもたらしました(参考:木に学べ、西岡常一著)。解体修理や薬師寺西塔の建設などに携わった西岡棟梁によるとこの時代の宮大工は木のくせ、どのように育ったのかをよく見極めてその個性を無理せず組み上げて強固な建築物にしたそうです。口伝えにいわく『木を買わずに山を買え』。当時の釘もたたら吹き鋳造で刀剣のように幾重にも重ねて鍛えられた鉄でできており錆びにくく1000年は耐えるとのこと。 現代の鉄筋コンクリートの建物寿命が100年程度の耐用としているのと比べてもすごいことなのですね。西岡頭領が建造した薬師寺西塔は1300年前の東塔と比較して14cmほど高く造られているそうです。1300年位経過すると沈んで今の東塔位になる事を前もって考えているのでしょう。宮大工の人々は世代を超えた仕事を常に考えているのですね。自分の身のみを考えて消費をしている現代人とはひと味違います。

閑話休題、法隆寺はいまだに謎が多い寺院といわれています。法隆寺の通俗的な七不思議は下記のように言い伝えられています。
1法隆寺にはクモが巣をはらない。
2南大門の前に大きな鯛石と呼ばれる石がある。
3五重塔の相輪に鎌が刺さっている。
4不思議な伏蔵がある。
5法隆寺の蛙には片目がない。
6夢殿の礼盤の下に汗をかく。
7雨だれが穴をあける部分に穴がない。
寓話言伝えの話だとは思いますが、いろいろな不思議がありますね。

更に話を進めましょう。日本書紀は厩戸王が没した後、息子の山背皇子以下直系の人たちの血統が蘇我入鹿によって絶えさせられたことを記しています。日本最初の正史である日本書紀は当時の権力者である藤原不比等のもとで編纂されました。歴史は勝者の目で書かれるのが常ですから、蘇我入鹿によってもたらされた聖徳太子一族の災難がはたしてなんだったのか?蘇我氏の流れを汲む聖徳太子の血統が絶えることで得をするのはもっぱら藤原氏であり、その障壁が蘇我の入鹿です。それを一挙に解決する糸口になったのが上記の山背皇子自害事件。中大兄皇子や中臣鎌足の入鹿暗殺へと続く藤原氏の陰謀ではないかななどの説がとなえられています。その因縁がこの法隆寺創建とその後の成り立ちにいろいろな疑問を投げかけているのですね。昔から不幸にしてなくなった皇子などを没後徳のある名でよんだ事はよく伝えられています。安徳天皇、菅原道真が天神様。聖徳太子の名前もそのような響きを感じさせます。はたして聖徳太子と称したのは藤原の不比等か?

哲学者の梅原猛はその著書『隠された十字架』のなかで法隆寺は聖徳太子の祟りを鎮めるために建立されたという説を唱えています。梅原が提唱した法隆寺の七不思議は:
1.日本書紀に関する疑問:法隆寺の建造、再建の記述の曖昧さ
2.法隆寺資材帳の正確さと建造の建前の正贋について。
3.中門の謎、奇数の柱の意味する所。
4.金堂の三本尊の不思議。
5.塔の仏舎利器に舎利がない。資材帳の高さと実物の違い。
6.夢殿の救世観音の不思議。
7.聖霊会の不思議。聖徳太子の霊を慰める法隆寺のもっとも重要な祭りの本当の意味。

まずは西院伽藍。金堂と五重塔があります。比較的おおきな中門が構えられています。支柱の数が5本4間。真ん中に支柱があり中央が通れない構造になっています。いろいろなお寺の三門、中門をみても6本5間、4本3間など中央に柱はありません。この法隆寺だけが例外のような構造になっています。これが法隆寺の性格をどのようにあらわしているのか、大きな議論の対象になっています。
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金堂と五重塔を横に配した伽藍。初期には塔を中心とした伽藍(たとえば四天王寺や若草伽藍)が徐々に金堂、つまり本尊を重視した配置(薬師寺、金堂を中心に東西に塔を配置)に変わっていきます。法隆寺の配置はちょうど中間に位置するものでしょうか。もともと寺というのはお墓である塔が中心であったのが、金堂中心の仏像崇拝の場所になっていったのか。興味がわくところですね。ここにはあまり述べていませんが、大講堂の存在も学問所という位置付けがあります。寺は昔学問の中心、大学のような所でもあったのですね。
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日本の寺院は日本の気候にあうよう工夫されていると話をしましたが、いわゆる装飾などにはなんとはなく中国建築風の感じがしました。写真では分からなかったのですが、実際に見ると金堂や五重塔の各層にある卍模様の特徴のある高欄(あるいは勾欄:下記写真参照)が印象深く目に飛び込んできたのです。少し後に建立された薬師寺などはこのような模様がなく簡素化されています。当時は随から新しいものが伝わって且つ随や朝鮮半島の百済等との交易を通じた人の往来もあったので建築様式もその影響が出たと思われます。菅原道真提案による遣唐使の廃止後、実質的に日本は鎖国状態に入り、それが後世になると日本独自の発展を遂げるのでしょう。

金堂とその中に安置されている釈迦三尊、阿弥陀三尊、薬師三尊。
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仏像写真は毎日新聞社「国宝」から転載。

下記は五重塔の偉容です。
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五重塔の相輪に刺さっている鎌。
五重塔の釜

金堂や五重塔の高欄。インド様式とも言われています。
高欄

和辻はこの伽藍を見て大胆な推理をしています。考え方はこうです。法隆寺の回廊のエンタシス構造は遠くギリシャからの建築様式であり、また金堂壁画についてもアジャンターの壁画との比較においてもギリシャの影響がこの法隆寺についてより大きく影響を受けていると論じています。そして東方にくればくるほどギリシャ形式がかえって強くなっていったのではないかと考え方を述べています。和辻は続けて日本の気候(風土?)に言及します。大陸(ペルシャ、インド、中国)よりも日本がギリシャに似ていることに関係があるのではないか?

少しエンタシスを持った柱が続く回廊(写真は東院の回廊)
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世界の街道をゆく」というミニテレビ番組があります。そこでスパルタ近くのギリシャの風景を写していました。歌舞伎役者の坂東三津五郎のナレーションでギリシャは日本の地形に似て山が海岸線近くまで伸びていて平地は少ないと。テレビ画面に写っているギリスアはまさしく日本の風景と重なるような感じがしていました。これは大陸の壮大な風景にはない、優しい自然そこにありました。和辻の印象もこの辺が根拠になっているのでしょうか?

西院と東院を繋ぐ道。このように見ると法隆寺は相当広い敷地をもっていますね。この門を何人の人々が通った事か。
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東院伽藍に到着するとまた違った風景になります。東院は西院よりも後に建てられました。ここは寺というより個人の邸宅の中にいるような感じです。大変こじんまりしています。八角形の夢殿の周りに回廊が設けられていますが、その広さは先ほどの西院とくらべても相当狭い。元々この場所には厩戸王の住居、斑鳩宮があったところで、聖徳太子をお祀りした小さな廟としては最適の所といえます。不思議なものでここにいると何か落ち着く気がします。
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和辻はここに安置されている聖徳太子の等身大に造られた救世観音像とフェロノサと岡倉天心の話をします。この観音が我々の前にお姿を現したのは明治時代。それまでは何百年の間秘仏とされてきました。和辻はこの像のお顔の微笑に控えめの美しさを見て取ります。この像も梅原の興味の対象になっています。梅原は和辻は素朴な誤解を下と述べていますね。この微笑はそんな柔らかいものではなく聖徳太子の化身として今までの不幸を秘めたものであるとしています。

さて、フェノロサが白布を解きこの秘仏が公になるときに寺僧達は逃げ出したと伝えられています。またなんと救世観音の頭と胸には釘が打ち込まれているそうです。その辺が梅原の法隆寺は聖徳太子の魂の鎮魂をおこなった寺であるという説の基になっているようですね。そうでなくともこの救世漢音の話はまさに衝撃的な話です。通常は別の支柱で台座に固定されている筈の「光背」がこの像の場合直接頭に固定されています。やはり梅原ならずともこれは奇妙と思えます。今もこの観音像は秘仏で、春と秋の2回公開されているとの事。
image004.gif (朝日新聞からの転載)

鐘楼、平安末期の建造物で国宝。
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参考文献:
隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)
(1986/02)
梅原 猛

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(1979/03/16)
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哲学者梅原猛が問いかけた大きな課題「再建された法隆寺は聖徳太子の祟りを鎮めるために建てられた寺である」はその後法隆寺建立に関する研究の幅を大きくふくらせました。梅原説を肯定、否定するに関わらず、梅原が調査し精査された資料を基本に精密な理論を打ち立てた事実は大変な重みがあります。否定するには相当の科学的な裏付けを持って臨まなければなりません。その一つに武澤秀一という建築家が遠くインドの仏教様式までさかのぼって論じた中門奇数間数の解釈の方法等があります。これはこれで梅原説とは違った証拠にもとずく理論で面白いと思いました。しかしこれとて梅原が提言している全ての要素について答えている訳ではありません。

これらの話は法隆寺にまつわる古代の歴史をより正確に知りたいという知的好奇心をますます大きくしてくれます。法隆寺の謎の話になるとこのブログではとても尽くしきれませんね。ちょっと消化不良の感は否めませんが、これ位にして、次の探訪先にいきましょう。目的地中宮寺は目と鼻の先です。





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