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蒸気機関車考(3): 日本の蒸気機関車、ハイケンスのセレナードにのせて

今までいろいろな角度から私として思い入れのある蒸気機関車について書いてきました。今回もその続きです。
先日埼玉副都心にある鉄道博物館に行ってきました。その感想と日本の蒸気機関車はどのような変遷をたどったのかを述べてみたいと思います。

プロローグ:

最初の蒸気機関車はイギリスからの輸入品で1号機関車(150型)とよばれたタンク型機関車が展示されていました。これは元々秋葉原にあった交通博物館のものを移転したのです。
IMG_4365_6_7_tonemapped.jpeg IMG_1904_5_6_tonemapped.jpeg
1号機関車(鉄道博物館)                 旧新橋停車場(汐留)

箱形の客車を牽引して新橋(汐留)から横浜(桜木町)を約53分位で走りました。実はそのまえの仮営業で品川横浜間23.8kmを途中停車無しで35分で走ったという話もあります。今の京浜東北線のダイヤですと東京から桜木町まで40分かかりますから1872年から2011年、140年も経っているのにあまり想定速度は違わないのですね。運賃は当時かけそばが5厘という時代に一番安い三等で50銭(100倍)でした。今の金額で言えばそば500円とすれば50,000円ですね。それが今は540円でそばと金額が変わりません。

近代日本のための重要なインフラの一つとして鉄道建設は明治政府の主要課題でした。清にたいするアヘン戦争など列強の植民地主義を肌で感じ取っていた先達は、早急にいろいろな事を立ち上げるためには逆説的にはなりますが基礎技術を当時の先進国に頼らざるを得ないという難しい状況に直面しました。植民地戦略を避けながらも列強のいい所を吸収するという微妙な舵取りを強いられたのです。鉄道においても列強の考え方が見えてきます。先進国にとって日本は潜在力のあるいい市場と写っていたのでしょう。アメリカやフランスは経営権まで含めた進出を企てるなかで自主運営を進めたのはイギリスでした。イギリスもやはり日本においてアメリカやフランスに対して有利な立場を保とうとした背景はありますが将来に向けての独立権を担保できる案に日本は期待したのでしょう。ただ維新後の日本には資源も技術もなかったので大きな費用を覚悟の上でイギリス依存で仕事をはじめたわけですね。少し時代をさかのぼって長州藩から井上馨、伊藤博文ら5人によるイギリス留学もこの辺の背景として考えられます。その5人の中の一人井上勝はイギリスにおいて鉄道技術を深く学んで帰国していました。この井上勝が日本の鉄道の方向性を築くことになります。

下の写真はとくに初期の鉄道に貢献した人々です。左から若き日の井上勝、島安次郎、エドモンド・モレル、それと蒸気機関車からアジア新幹線プロジェクト、新幹線に関わった島安次郎の子の島秀雄。
images.jpg sima.jpg エト#12441;モント#12441;モレル 島秀雄

さて、日本への鉄道の導入が開始された時期にはもう既にヨーロッパ、アメリカでは商業用の列車運行がおこなわれていた時代でした。イギリスの商用鉄道の開始は1825、アメリカ(1827)、フランス(1832頃)、ドイツ(1835)。日本の開始は1872年、列強に遅れる事約40年位ですね。蒸気機関車はもう既に改善された高速機がヨーロッパの本線では疾走していた頃です。1863年にはもうロンドンで地下鉄が営業していたのですね。

狭軌か標準軌かの選択(日本鉄道の100年越えの葛藤)
レールとレールの間隔をゲージと言いますが、これを決める事は基本中の基本です。標準軌の由来はローマ時代の二人のり戦車の車輪の幅とも言われていて、その後スチーブンソンの蒸気機関車が同じレール幅を採用したと言われています。1435mm(4フィート8.5インチ)の幅を持ったゲージです。これを標準軌とよび、これよりも小さいゲージを狭軌と言います。さて明治の鉄道導入の決定の際このゲージをどうするか決めなければなりませんでした。イギリス人の技師エドモンド・モレルが時の大蔵卿兼内務卿の大隈重信に確認した所、日本は国土も狭いし山や川が多くその地形にそって鉄道を施設する必要性からレール幅の狭い狭軌(3インチ6フィート=1067mm)がいいだろうということになりました。大隈重信の近くに井上勝がいて大隈から相談されたのでしょう。当時のイギリスは狭軌の長所が喧伝されていてその時流を読んで狭軌を進言したのかもしれません。このゲージは今のJR在来線やほとんどの私鉄のレール幅として連綿と受け継がれています。例外なのが都電、京王電鉄と都営新宿線の1372mmなどがあります。1372mmは新橋駅開業後と都心に整備された馬車鉄道がルーツです。それを都電が引き継ぎました。
800px-Rail_gauge_world.png
世界のゲージの状況(Wikipediaから)
小さくて分かりにくいですが、紫色(南アフリカ地方、インドネシアの一部、日本など)が1067mm、青色(北アメリカ、オーストラリア、欧州、中国など)が標準軌1435mmです。

狭軌は上記の地図を見ても分かるようにイギリスの植民地で多く使われており、イギリスは日本の鉄道にもその考え方を踏襲したという話もありますが、イギリス人のエドモンド・モレルは日本の事情にあわせていろいろ考えていたようです。英国から鉄製の枕木を売り込めという話を断り、日本独自の木製の枕木を使ったというように。残念ながらモレルは病魔に冒されて新橋横浜の鉄道開業前になくなってしまいました。お雇い外国人とはいえ優秀な技師であったモレルは策を弄して自国の利益を図る事はなく純粋に技術的なことを考えて日本の鉄道のために随分骨を折ってくれた人でした。日本の機関車の動輪は他の植民地で使われている車輌よりも大きな寸法の車輌が多く単に植民地用という事ではなく将来的な高速サービスをも目指した形態であったと考えられます。

イギリスの植民地であった南アフリカも狭軌を採用しており蒸気機関車の技術発展を促して日本のC62よりも大型の車輌が使われている事実もあります。狭軌で最高の性能を出そうとする姿勢は日本の車輌開発よりも進んでいたようです。狭軌の総延長で1位は南アフリカ、2位が日本です。
比較
形式図の比較:上が南アの25NC型、下が日本で最大のD52です。両方とも狭軌の機関車ですが、同じスケールで描くと大きさの違いが分かりますね。この25NC型はC62の約2倍のパワーを持っているそうです。日本のC62などが出した最高速度が南アフリカでは通常の運転速度であった事は馬力の面からも理解できますね。

日本の鉄道に多大な貢献をした島秀雄氏は後年南アフリカも訪れています。やはり狭軌の車輌の実力を確認したかったのかもしれません。彼も車輌の発展状況を興味深く目にした事でしょう。ただ彼によると、南アフリカと日本では車輌はともかく地形、地盤の違いなど鉄道施設の違いなどにより高速運転に対するハードルは日本の方が高かった事、それに深く関わる安全性の見地から総合的に見て蒸気機関車の設計思想は違わざるを得ないと述べています。

アジア新幹線(弾丸列車)プロジェクトと標準軌:
その島秀雄氏をしてもやはり願望したのが標準軌の採用でした。列車の高速化、輸送力の大きさなど標準軌道には幾多の長所があったからです。島秀雄氏の父島安次郎は後藤新平と鉄道の改軌を唱えた人でしたが、父の時代ではやはりその採用は見送られたのでした。狭軌によって構築されていく鉄道の総距離の延長が続く中、改軌の可能性はどんどん難しくなっていきました。第二次世界大戦前には日本の背骨とも言うべき東海道本線の輸送能力が限界に達していて更なる輸送力の向上を求められていた背景などがあり、国鉄と当時の軍部の間で東京から北京まで直通のアジアの超特急というべき新幹線のプロジェクトが出来ました。その本線は標準軌でいこうという事が決定され、一部工事が始まりました。車輌も大型の蒸気機関車や電気機関車が設計されていたのでした。歴史が示す通りこのプロジェクトは戦争が開始されて中止になりました。ようやく戦後に東海道新幹線の計画が承認されて1964年10月開通されましたが、10年ぐらいでこの新幹線が竣工できたのは戦前のアジア新幹線計画でほとんどの路線確保や日本坂トンネル、新丹那トンネルの半分が完成されていた恩恵があったからに他なりません。

戦前のアジア新幹線で考えられた広軌(標準軌)の蒸気機関車HC61と電気機関車HEH50です。
HC61の形式図(ドイツBR05と比較したもの)
HC51型蒸気機関車

HEH50の形式図
HEH50.jpeg

HC61は既に標準軌で運行されていたドイツの05型蒸気機関車をベースにしてそれを拡大した機関車です。05型はヒットラーの命令下、イギリスのA4機関車マラードと世界一の速度を争った機関車ですね。 → URL 世界一最速の蒸気機関車
日本の鉄道技術者にとってこのような拡張は初めての試みで相当大きなチャレンジであったようです。なぜ蒸気機関車を考案したのかなのですが、当時の軍部が爆撃に弱い電化を嫌がったという事が上げられています。しかしプロジェクトリーダであった島秀雄氏の本音は電気機関車による牽引が本命で蒸気機関車は陸軍にたいするデモンストレーションであった可能性があります。トンネル部分は電化を行って電気機関車で運行するというコンセンサスを陸軍から得ていたようです。ただその電気機関車も当時のモーターの駆動構造を踏襲してそれをスケールアップする手段が考えられており新しい技術を導入するという思いには至らなかったようです。HEH50は全長32mという巨大な長さの機関車でした。この電気機関車で時速210Kmを狙っていたのですね。1964年開業したひかり号と同じ速度です。

蒸気機関車の変遷:鉄道博物館に展示されている機関車を素材として。
輸入の時代
北海道開発のためにアメリカから輸入された初期のテンダー付きの機関車弁慶号。
IMG_4368_69_70_tonemapped_20111105223820.jpeg

アメリカから輸入されたマレー式機関車が鉄道博物館にカットモデルとして展示されています。展示されているのは9800形式の9850号機です。なぜ輸入された機関車が展示されているのが少し奇異に感じますがこの機関車は使い勝手が悪く短命に終わったために早くから秋葉原の交通博物館にあったのが引き継がれているという事でしょうか。マレー式というのはシリンダーを右と左に各々2個備え、動輪が6軸もある機関車です。
9850マレー式

IMG_4306_7_8_tonemapped_edited-1_20111105223820.jpeg IMG_4291_2_3_tonemapped_20111105223818.jpeg

国産の時代
いろいろな形の蒸気機関車が製造されましたが、私の興味があるものについて触れたいと思います。

C53 国産で唯一の3気筒蒸気シリンダーをもった機関車。本線用で速度と牽引力を要求される機関車が必要で当時イギリス、フランス、ドイツなので採用されていた3気筒シリンダーを初めて国産機関車に採用したもので島秀雄氏の最初の設計になる機関車です。3気筒を制御するバルブ機構をイギリスのスーパーエンジニア、ナイジェルグレスリーが開発した弁機構を採用しましたが、基本的な構造、強度を考慮したものではなくまたグレスリー弁が持っていた保守性に乏しいという問題もあり10年という寿命で廃車になった作品でした。ただ乗り心地は2気筒の機関車に比較してスムースであったという感想があります。このC53は当時流行った流線型の外観を施されました。たった1輛でしたが。ただ100Km/h程度の流線型は実用的というよりはデコレーションだけであったので後日普通の形に戻されたようです。鉄道博物館に単に『蒸気機関車の駆動構造』というタイトルだけでとくに特徴の3気筒エンジンを積んでいるというコメントもなく模型が展示してあったのが印象的でした。
C53.jpg 
通常型と流線型
C53 JNR SteamLocomotive C53 JNR 流線型

駆動機構 グレズリーバルブギアと蒸気エンジン3気筒を収納するフレーム。真ん中の図はシリンダーが3個とその制御弁が収まる小さなシリンダー3個の位置関係が分かるフレームです。
C53駆動系説明 C53正面3気筒フレーム Gresley Valve Gear
鉄道博物館に展示している模型。
IMG_4345_6_7_tonemapped.jpeg IMG_4351_2_3_tonemapped.jpeg

C57 最も均整が撮れて機関士にも人気があったC57号機。汎用の機関車で本線からローカル線まで幅広く使われました。私の好きな機関車でもあります。鉄道博物館でも中央の転車台に堂々と展示されています。
IMG_4321_2_3_tonemapped.jpeg

C62 梅小路機関車館に動態保存されているC62 2号機 日本で最大の機関車ですね。2-6-2というハドソンタイプの機関車です。先日修繕されて実機運転されるようになったC61とともに本線特急用で使用されていました。C61のレストアの記録は山田洋次監督が監修した記録映像でNHKで放送されました。汽笛を鳴らした瞬間、まさに息を吹き返した動物のように見えて感動的でした。
IMG_2383_4_5_tonemapped_20111105230948.jpeg

D51:飛鳥山公園に静態保存されている勇姿。この蒸気機関車も島秀雄の代表的な作品です。
D51飛鳥山

蒸気機関車賛歌:
旧国鉄からJRにかけて蒸気機関車に牽引される列車の車内アナウンスにオランダの作曲家ハイケンスによるセレナードノメロディーがオルゴールや電子チャイムで流されました。下が楽譜とそのチャイムの音です。日本の蒸気機関車の賛歌としてセレナード全曲をBGMにした動画も作りましたので見てください。

メロディー車内放送 → JNR Heykens Seremade


スクリーンショット(2011-11-17 23.25.01)



   1318313107FJOMQ9VP_20111028193733.gif

蒸気機関車の興亡
蒸気機関車が営業運転するときから開発終了時期までを示したのが下記の図です。明治維新の前に先進国は既にある程度の蒸気機関車技術を成熟させ、蓄積したノウハウを持っていました。先進国並みに急いで技術とインフラを立ち上げなければならなかった日本は自主開発、生産にかけた時間がやはり相当短かった事は否めません。日本の時間軸で最初の40年位はイギリス、アメリカなどからの輸入に頼らざるを得ない時期でした。(図の薄青色の期間)。
寿命4

興味深いのは日本が一番早く蒸気機関車の開発を終えているという事実です。ある意味で蒸気機関車にしがらみが薄い日本は高速移動手段を電車に切り替える決断が早かったとも言えます。アメリカは石油が安く手に入るというお家の事情で蒸気機関車の後は強力なディーゼル機関車に移っていくのです。

1964年に開業した新幹線は世界中に停滞し始めていた鉄道不要説をはねのけて再度鉄道の交通移動手段の有効性を認めさせたのは輝かしい事でありました。東京大阪間の新幹線の交通量を他の手段で実現するのは至難の業であり、これが日本の奇跡的な経済成長を促した事はまぎれもない事実でしょう。新幹線のあとフランスではTGV、ドイツではICEの開業が続いています。もう一つ重要なのは開業以来事業者起因に依る死亡事故が今現在ゼロである事も特筆すべき事でしょう。

エピローグ:
1964年の東海道新幹線の開業式になんと既に国鉄を去った島秀雄氏は招かれなかったのです。しかし後日28年を経て1992年『のぞみ』の一番列車の試乗会には島の貢献に報いるために当時のJR東海の社長に招待されたのでした。その後1998年に島秀雄氏は97歳で永眠されました。島氏の望みはプラットホームに保護壁をつけることでした。ホームからの転落事故をなくすというのが強い意志だったのです。彼の従弟がホームから落ちて命を落とした苦い経験もその後押しをしていたのでしょう。今や新幹線で全ての駅で実現し、在来線も着手されています。

参考資料
日本国有鉄道蒸気機関車設計図面集(1976年) 国鉄SL図面変種委員会
弾丸列車:前間孝則
蒸気機関車の興亡 斉藤晃
蒸気機関車の挑戦 斉藤晃
蒸気機関車の技術史 斉藤晃



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