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アルキメデス列伝(1):ポエニ戦争とシラクサのアルキメデス

前から興味のあったアルキメデスについて少し述べてみたいと思います。アルキメデスはシシリー島のシラクサに住んでいました。ここにアルキメデスの偉業を伝える写本があります。正確にはアルキメデスの論文を書いた羊皮紙の文を削除してキリスト教の祈祷書テキストが上書きされた写本で、パリンプセストと呼ばれています。

アルキメデスのパリンプセスト:
古来からアルキメデスは数学や物理学の先駆けの天才として語り継がれてきましたがその偉業もいろいろな写本を通して語られたものです。ただ2000年以上の間にはその写本も紛失されたりしてアルキメデスの偉業の全容が判明していませんでした。その中で突然現れてきたのがこのパリンプセストでこの本には新しい論文が含まれていた事がようやく分かってきました。今日現在まだ最新技術を駆使して解読の最中だそうです。新しい発見が報告されるかもしれません。この本の内容はアルキメデスのパリンプセストがどのように解読されていったのか、その中に書かれたアルキメデスの方法とはどのようなものかを息をつく暇もないほど刺激的に描写されています。がその内容についてはまた別途述べる事にして今回はアルキメデスが生活していたシシリー島がカルタゴとローマの覇権争いでどのように翻弄されたのかを述べてみたいと思います。


シラクサの生い立ち:
シラクサはギリシャ全盛の時代からアテナィ、スパルタと並んで主要なギリシャの独立都市国家でした。共和制ローマがイタリア半島のほぼ全域を統一しつつある頃、当時強大な海運国であったカルタゴとの衝突は避けられない状況でした。シシリー島は地政学的にもメッシーな海峡を隔ててローマと近い関係にありますし、一方豊潤なシシリー島はカルタゴにとっても重要な地であったのです。シラクサはシシリー島の中心でカルタゴやローマから独立した存在でありましたが、この二大勢力の狭間で運命を翻弄されることになります。その地でアルキメデスは数学や工学の才能を発揮していました。第一次ポエニ戦争が始まったのは彼が23才の頃。彼の生きた時代はポエニ戦争の争乱のまっただ中でした。


カルタゴとローマ、衝突の潜在性:
第一次ポエニ戦争の勃発する前のカルタゴとローマの勢力範囲を示したのが下記の図です。ローマは都市国家から発展した勢力だったのですね。カルタゴから見れば『その辺にあるラテンの国』ぐらいの意識であったかもしれません。この後よもやそのローマに滅ぼされるという事など少しも感じていなかったでしょう。図でよくわかるようにカルタゴは西地中海の制海権を握り海運貿易などで大きな富みを得ていたのですね。当然その後ろ盾には強大な海軍力があったと思われます。
First_Punic_War_264_BC.jpg

第一次ポエニ戦争(The First Punic War 264-241 BC)なお、ポエニとは当時のフェニキア語でカルタゴという意味です。
当時シラクサはカルタゴと同盟を結んでいましたが、ローマの振興とともにこの海峡が紛争の種になってきてついに第一次ポエニ戦争が勃発したのです。ローマは陸軍の国でカルタゴは海軍の国。操船もおぼつかないローマがとんでもない兵器(corvus:カラス装置と呼ばれていて船の舳先に桟橋のような梯子をつけて敵の船にそれを架けて兵士を送り込む)を使って海戦の場面を陸の戦いに変えてしまったのです。その結果第一次ポエニ戦争はローマの勝利で終結しました。その結果シシリー島はローマの勢力下に入ったのでした。

第二次ポエニ戦争(The Second Punic War 218-201 BC)
敗戦した後の平和条約はカルタゴにとって屈辱的なものでした。これがまた新たな遺恨を生み紛争の種になります。豊かなシシリーと強大な海軍力を失ったカルタゴは富みを求めてイベリア半島に進出していきました。その進出がまたローマのしゃくに障る事柄となり平和条約の解釈の隙をローマが捉えて第二次ポエニ戦争を仕掛けました。小さい頃からローマが宿敵であると教えられたハンニバルはその屈辱を跳ね返そうとタイミングをみてローマに攻め込みます。有名な象を連れた軍隊によるアルプス越えの遠征です。520px-Hannibal3.jpgやはりここでも注目すべきは海戦が得意であるはずのカルタゴがアルプスから陸伝いにローマに攻め込んだという事ですね。第一次ポエニ戦争とは全く逆でカルタゴが陸戦を挑んだのでした。ただ諸説があって当時カルタゴの海軍力はとてもローマにかなわなかったので山越えしかなかったという話もあります。話をアルプス越えに戻しますと、ハンニバル自身が記しているとされていますが、このアルプス越えの遠征でイタリアに到達できた軍隊は遠征開始時の半分にも満たなかったそうです。それほどつらくて過酷なアルプス越えを経験した軍隊は苦労をともにした強い絆で結ばれて統率と意欲旺盛な組織になっていったそうですね。それに加えて指揮官としては第一級の素質を持ったハンニバルに導かれていたのですからこのカルタゴ軍の進撃は過激なものだったのです。イタリア半島に侵攻後はハンニバルは連戦連勝でローマ本土に居座ります。後世の士官学校の陸戦の教科書にも載ったカンネの戦いもこの戦争で戦われました。カンネの戦いでは共和制のリーダーである執政官(後ほどシラクサ攻防戦の知将として出てきますマルケルス)も戦死するというローマにとっては最初で最後の大敗北をきっしてしまったのです。この時はガリアの騎兵が今までのローマの戦い方とは次元の違う働きをしたと伝えられています。左上の写真はハンニバルのアルプス越えを描いたものです。


下左の図:ローマ、カルタゴ、シラクサの地政学的な位置関係、下右の図:メッシーナ海峡の拡大図、海峡は約5Kmの幅しかない。
arch_biosicili-2.gif スクリーンショット(2012-01-14 17.45.51)

シラクサの運命:
その状況を察知したシラクサの王はカルタゴと同盟を結んでローマを攻め始めました。これがその後のシラクサの運命を決めました。カンネの戦いのような勝利をハンニバルがあげてもしかしローマに致命傷を与えることができませんでした。それ以降ローマは勝たないけれども負けない戦法をとったのです。ハンニバル軍はいわばずっと適地にいのでその補給も本国から来る訳ではありません。勢い現地での略奪などの行為を行っていきます。当初連戦連勝をしたハンニバルはイタリア本国内でローマの反対勢力を作って内部から追い込むという戦略をとろうとしたのですが、ローマに反攻する都市がなかなかあらわれなかったのがハンニバルにとって計算外だったのかもしれません。形勢は徐々にローマに有利になっていきました。最後はカルタゴ郊外のザマの戦いで無敗を誇った半威張るもスキピオ・アフリカヌスに破れることになります。ここに第二次ポエニ戦争はローマの勝利で終結します。

eurialo01.jpg時間をさかのぼって、シシリー島ではカルタゴに味方をしたシラクサがローマ軍の侵略を受けました。『ローマの剣』とよばれた知将マルケルスが率いた精鋭がシラクサを攻めたのです。そのときにローマ軍を悩ましたのがシラクサにいたアルキメデスが考案した兵器だったと歴史は伝えています。アルキメデスは幾何学などに大きな功績を残していますが、浮力の原理など今で言う物理学などにも精通したとえば正確な軌道で命中率が高い投石機やその他の兵器を考案して活躍していたのでした。天然の要塞に加えてアルキメデスの武器でシラクサはローマ軍と2年間もの籠城戦を戦ってとうとう力が尽き落城させられたのでした。そのときにアルキメデスも命を落としたとされています。紀元前212年のことです。
左は古代のシラクサのエウリュアロスの要塞で激戦の跡、アルキメデスが没した地です。今も尚堅牢な城壁が残っています。

220pxArchimedes_sphere_and_cylinder.pngアルキメデスの最後:シラクサは天然の要塞でシラクサ軍はローマとの戦いによく持ちこたえましたが、最後はローマ軍の侵攻を許してしまいました。そのとき幾何学の証明に没頭していたアルキメデスはやって来たローマ兵の命令を聞かなかったばっかりに殺されてしまいました。確かではないのですが、言い伝えによるとアルキメデスはある証明に没頭していて兵士に気づかず兵士のいう事を聞かなかったとの事。彼の最後の言葉は『私の図形を壊さないでくれ』といって抵抗したのでしょう。同じ図形を見てもアルキメデスにとっては大事な図形でも兵士にとっては落書きのようなもの。アルキメデスの最後には諸説があってアルキメデスが製図用具を運んでいる所をローマ兵が金目のものだと勘違いして殺したとの話もあります。いずれにしてもアルキメデスとローマ兵が感じる信じがたい認識の差で悲劇が起こったといえます。

ローマの司令官マルケルスはアルキメデスの才能をよく知っていて、ぜひローマに連れて行きたいと思って、軍には絶対アルキメデスを殺さず連れてくるようにと言明していたのですが、現場の混乱で殺された事に激怒してアルキメデスを理解できなかった哀れな兵士達を疎んじたと伝わっています。

アルキメデスの墓には左上のような図形が書かれていたようです。円柱に内接した球があり、円柱の体積と球の体積の比は3:2ということ。球面を円柱との整数比であらわせる事をアルキメデスは気に入ったようです。

第三次ポエニ戦争(The Third Punic War 149 -146 BC)
カルタゴの運命にはさらに後日談があります。ハンニバルのポエニ戦争でカルタゴは支配地域と海軍力などほとんどを失い、ローマによる支配を常に心配するという運命になりましたが、戦後商業や貿易に励みそれ以降も富みを蓄積していきました。その結果膨大な賠償金を期日前にローマに支払うことができたのです。しかしその事がかえってローマから見るとカルタゴはまだ勢力があると思わせることになり、ローマから難癖をつけられて第三次ポエニ戦争が始まりました。戦争というよりはローマ人によるカルタゴ人の浄化みたいな包囲戦でした。カルタゴはよく戦い3年もの間持ちこたえましたが、ローマの力の前に屈してしまいました。カルタゴは完膚なきまでに破壊されました。ローマ人はカルタゴ市街を全て木っ端みじんにして埋め立ててしまい、塩を撒いて更にその上に新しい市街を建てました。全てのカルタゴ人は奴隷にされてしまいました。

下記の写真はローマ軍の破壊を免れた古代カルタゴの町の遺跡(ケルクアン)
Kerkouane_vue.jpg

カルタゴについて日本の外務省の話:
ところで日本政府の外務省のホームページでこのカルタゴの最後の運命について面白い記事が載っていました。全文を引用してみたいと思います。
外務省外交政策:歴史から学ぶ http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/hanashi/story/1_4.html
***********
カルタゴの滅亡
今から2000年以上の昔、北アフリカ沿岸都市国家の一つで、地中海世界で有数な国家として栄えていたカルタゴは、紀元前200年頃、軍事大国ローマと第2次ポエニ戦争を戦い敗れて無条件降伏した。その時の講和条約の内容は次のとおりであった。
(1)独立は認めるが、本国以外の海外領土は全て放棄すること、
(2)専守防衛に限り自衛軍の存続を認めるが海外派兵は認めない、
(3)カルタゴ駐留のローマ軍の経費は全てカルタゴが負担すること、
(4)賠償金を支払うこと、等である。
戦後、カルタゴは経済活動のみに専念し、奇跡の経済復興を成し遂げた。勝ったローマの方は表面的には華やいでいたものの、勝者としての国際的責任と義務をかかえこみ、逆に財政赤字に苦しむ国家となっていった。発展をつづけるカルタゴを苦々しい思いでみていたのはローマの元老院(議会)ばかりでなく、他の地中海諸国も同様であった。このままの状態がつづけば、世界の富は全てカルタゴに支配されてしまうと恐れをいだいた軍事大国ローマは、いろいろな無理難題をカルタゴにおしつけ、それを拒否したカルタゴに一方的に宣戦を布告し大軍を送った。カルタゴは、仲介をたのむ国もなく、孤立無援の戦いをつづけ、紀元前145年、ついに全国民玉砕し、カルタゴは地球上から完全に抹殺されてしまったのである。
カルタゴは、ローマとの関係を重視し、約束を守り、友好関係をつづけてきたつもりでいたにもかかわらず、ローマ国内にカルタゴに対する嫉妬、憎しみ、いらだちが充ちあふれていたことに気づかなかった。既にローマの属国となっていたギリシアは、そのヘレニズム文明がローマ人に敬意をもって受け入れられていたために、国家としても安泰であった。カルタゴには、ローマが敬意を払うような文化もなく、十分な軍事力もなく、また、外交の稚拙さゆえに友好国家を作ることもなく、ただただその自国の経済力のみを頼りにしてきたのであるが、その経済力があだとなり、ローマの憎しみの前には何の力も持つことなく、地球上から消えていった。強力な軍事力をもたないカルタゴは、その巨大な経済力で近隣諸国との友好関係を築いておくべきだった。我々も“歴史を学ぶ”のではなく、“歴史に学ぶ”べきであろう。
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外務省の話は日本をカルタゴに見立ててその歴史から日本の周辺の大きな勢力アメリカや中国などとどのようにつきあっていくべきかという材料にしようという事かもしれません。ローマはこの後地中海の覇権を握り世界帝国として発展していきます。所謂後日パックスロマーナと呼ばれる世界です。しかし平和をこの規模で維持させる事は経済的な見地からいえば莫大なお金が必要になるという事ですね。強大な軍事力の維持、大きく広がった覇権地域の治世や維持の費用など。一方軍事力を持たないカルタゴはそのような支出に頭を悩ます事がなく貿易などに努力を重ねて富みを築いていきます。まるで第二次世界大戦後のアメリカと日本のようです。近代をパッックスアメリカーナと呼んでいた事を思うとこのアナロジーが大変適切のように思われます。

シラクサはローマ時代はシシリー島の首都としてその位置を維持しましたが、7世紀のイスラムの侵略後徐々に衰退していきシシリー島の中心もシラクサからパレルモという都市に移っていきました。巨大な覇権国家を隣に持った都市国家はアルキメデスは輩出したもののそれ以外の文化、軍隊を持たず常に他の国との同盟を求めて生きていかなくてはならなかったのですね。ただ豊饒な土地が人々に幸福をもたらしそれがまた仇になるという皮肉な運命を感じさせます。

さてそのような背景のもと、アルキメデスは何を残したのかを勉強してみたいと思います。アルキメデスの墓に描かれた図形のようにあの時代に彼は無限についての考察を鋭く見据えていたようです。これが17世紀のニュートンやライプニッツの微分、積分につながっていくのですね。(続く)



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