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青梅鉄道公園:悲哀の蒸気機関車E10の現役時代に思いを馳せて。

JR青梅線の青梅駅近くにある青梅鉄道公園。ここではいろいろな機関車が静態保存されています。今回とくに注目したのは二種類の機関車、日本で一番たくさん製造された機関車と一番少なかった蒸気機関車の物語です。
青梅鉄道公園リンク→青梅鉄道公園

D51型蒸気機関車:
まず入り口で目を引くのがD51452機関車。とくに鉄道ファンではない人にも知れ渡っているデゴイチ。D51貨物用蒸気機関車で452号機です。青梅鉄道公園でもエースの座をキープしています。D番号から始まる機関車は動輪を4軸持っていて、速さを競うよりは重い貨物列車を牽引するように設計されました。ちなみに特急用客車などを牽引する蒸気機関車の主流は動輪が3軸でC形式と呼ばれる機関車です。C62(俗称シロクニ)やC57(シゴナナ)などです。さて鉄道公園に展示されているD51はかなり整備された状態で保存されています。
IMG_5798_799_800_tonemapped.jpeg

国産で一番多く作られたのはこのD51蒸気機関車です。1,115両も作られ汎用機として全国で活躍しました。私がここ1年間に撮影したものだけでも4両あります。梅小路蒸気機関車記念館には動態保存されているD51-200号機がありました。訪問したときは運転準備でテンダーの後ろ姿しか撮影できなかったのですが、動態保存されてる車輌には息吹を感じさせられました。シリンダーから伸びているロッドなども油でピカピカになっていて躍動が感じされます。一方眠っている機関車はさすがにピカピカに塗装はされていますが、もう動かない全く静かな顔をしています。前述したように青梅鉄道公園にはD51-452が静態保存されています。東京北区の飛鳥山公園にはD51-853が、上野の科学博物館前にはD51-231があります。これらの履歴を調べてみました。下記のその結果を示します。動態保存されている機関車はまだ籍があるのですね。
D51機関車履歴

IMG_2416_7_8_tonemapped_20120404220008.jpeg IMG_0538_39_40_tonemapped_20120404220008.jpeg

D51853.jpg左上の写真:梅小路蒸気機関車館のD51-200。後ろ姿の写真しか撮れませんでしたが。

右上の写真:上野の科学博物館前におかれているD51231。

左側は飛鳥山公園のD51853です。飛鳥山のD51は少し保守状況が良くなかったように思われます。
鉄道公園ではD51の運転席に入れましたので運転台の写真を撮りました。前回紹介しましたCAD図面並びに実際の図面を比べてみましょう。少しCAD図面では省略されている部品がありそうです。このような比較をすると面白いですね。全てクリックすると画像が大きくなり詳細がよりよくわかります。
IMG_5837_8_9_tonemapped.jpeg D51-01_20120404215022.jpeg D51運転台3
左から:D51425の運転台、CAD図面、平面図。


E10型タンク式蒸気機関車:

さてもう一台はE10という日本の蒸気機関車では珍しいタンク型の5動輪を採用した蒸気機関車です。この2号機が青梅鉄道公園に展示されています。D51とは違って奥の方にひっそりと佇むように。
IMG_5804_5_6_tonemapped.jpeg

今静態保存されているD51に比較しても10年程新しいときに製造された機関車です。国鉄最後の大型タンク機で急勾配専用として当時必要とされた奥羽本線の坂谷峠越えに1948年に5両(汽車製造会社)が製造されました。

勾配を重い貨車や客車を牽引する事を目的に作られたこの機関車は幾つかの特徴を持っています。動輪が5軸もあること。その中の第3と第4動輪の外周にはフランジがなく平らなタイヤがそのままレールの上に乗っていること。これは半径の小さな曲線でも使用できるようにしたためです。又同じ用途で第1動輪が左右に動くように設計されているということ。次の図面を見るとよくわかります。
E101動輪の構造

この機関車に先行すること35年間、明治末期に急勾配用としてドイツより4100形式を輸入配備しこれを参考に4110形式を国産が増産され最大0.38%急勾配の奥羽線(福島、米沢間)と肥薩線(人吉、吉松間)に投入、重用されてましたが長年の酷使に戦中戦後の資材難が加わってその老巧状態は放置できない程でした。奥羽線については戦後電化が計画されていましたが当時アメリカ進駐軍の方針もあって実現の時期はあきらではなかったのです。したがって後継機の要求は待ったなしの状態だったのですね。
4110SL.jpeg b0001380_0293227.jpg
上記の左が4110の図面、右の写真が4110の保存機です。保存機の写真はhttp://ariaribox.exblog.jp/m2009-09-01/さんブログからの転載です。

E10はこれらの情勢の応急策として1948年に誕生しました。今まで新規といっても過去の機種の改良がほとんどだったのですが、このE10に関しては全く新設計で汽車製造会社によって作られました。奇しくも青梅鉄道公園に展示されているD51-452と同じ製造会社です。国内では最後の新造蒸気機関車となりました。E10は4110を一回り大きくした、より強力な牽引力を持った機関車として設計されています。使われているボイラーはD52と同じ太さのものです。

製造されるや否や、早速奥羽線に配属されましたが皮肉にも1年後同区間の電化が完成しE10は必要なくなってしまいました。次の配属は九州の肥薩線の人吉ー吉松区間でこれも急勾配峠越えです。しかし同区間ではE10の大型タンク機関車が急曲線が続くこの区間では軌道に与えるダメージが大きい等の理由でD51などに場所をとられてしまいました。仕方がないのでこの次は北陸線の倶利伽羅峠の補機に転用されました。しかし同区間の勾配改良で補機が不要となってやむなく大気となり、最後は本来なら急勾配とは関係のない米原ー田村間の交直接続の絶縁区間のピストン運転に転用されましたがこの区間も改良され1962年までに全機廃車となってしまいました。新規に製造されてから14年間でその姿を消すことになったのです。まさしく運命に翻弄された『遅れてやってきた蒸気機関車』だったのでしたね。D51の繁栄と比較した場合その差に唖然とします。1115両とたったの5両。

5両のE10の一生を下記にまとめました。一カ所で使用された期間は1年が2回、あとは2年間と5年間で随分短い時間でした。その場を追われるように次の配属先にいかなければならなかったと言えますね。最後の北陸本線米原地区では本来の仕事とは全く違う仕事をあてがわれたと言っても過言ではありません。それでも報われずに短い一生を送ったのでした。

配属備考
1948-1949奥羽本線 坂谷峠スイッチバック路線 最大勾配38パーミル
1949年電化完成で電気機関車に変更
1949-1950肥薩線 人吉ー吉松間ループとスイッチバックの混合路線 勾配30.3パーミル 線路に与えるダメージ   (横圧)が大きく最終的にD51に変更されてしまった。
1950-1955北陸本線 倶利伽羅峠勾配18-20パーミル、新倶利伽羅トンネル開通による勾配を少なくした路線完成の結果不要に。
1957-1959北陸本線 米原ー田村間専用交流ー直流切り替え絶縁区間のワンポイント牽引用としてタンク車の利点を生かした転回不要のピストン輸送。欠点は速度が出なかったが一駅だったので大きな問題ではなかった。絶縁区間の改良とデーゼル機関車投入の結果、E10牽引車不要に。とうとう行き先がなくなってしまった。
1959-1962順次廃車廃車の年(1962)が鉄道90周年だったので静態保存が決定。青梅の鉄道公園に2号機が設置される。1号機はその時既に解体済みだったので2号機になった。

E10は1970年代後半まで使われたD51と違って1962年には早々と姿を消した悲哀の機関車であった事は否めません。今はもう動かないE10の坂道を駆け上がる多分総当力強いと思われるドラフト音はどのような音色だったのでしょうかね。


参考データ:
図面は日本国有鉄道 蒸気機関車設計図面集(原書房)
青梅鉄道公園パンフレット
その他WIKIPEDIAなど

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