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東京メトロ銀座線物語

東京メトロの前身である東京地下鉄道株式会社が開業したときに造られた車輌基地がいまも上野にあります。今も現役でつかわれています。ここには東京の地下鉄では唯一の踏切があります。踏切には珍しく道路側が優先になっていて線路側は通常シャッターが下りていて軌道の中に人が入れないようにしています。銀座線は第三軌条方式という3本目のレールから電気を取り入れて走っています。通常の電化のように架線がありません。間違って人が入ると感電の危険があるのでこのような遮断柵が設けられているわけです。路上部分は第三軌条がなく電車は踏切区間を惰性で走ります。

車庫側の踏切報知器と軌道遮断柵。
IMG_6507_8_9_tonemapped.jpeg

遮断柵を通してみた車庫の様子。銀座線の車両が止まっています。右側では何か作業をしているようですね。
IMG_6513_4_5_tonemapped.jpeg

車庫と反対側の路線。この坂道をくだって電車は稲荷町と上野駅間の待避線に入りそこから本線に出て行きます。
一昔前に、春日三球・照代の漫才で地下鉄はどこから入れるのでしょうねという演目がありましたが、これがその回答です。現在はこの地上車庫のすぐ真下に同じような規模の地下車庫もあるとの事です。
IMG_6510_1_2_tonemapped.jpeg

ちなみにGoogle Mapで見ると下記のような位置関係になります。
銀座線踏切1

銀座線は日本(というか東洋)で一番古い地下鉄で1927年に営業運転を始めました。当時の東京地下鉄道株式会社の実質的な経営者であった早川徳次(はやかわのりつぐ)は日本における地下鉄の父と言われています。1914年、若い頃イギリスを視察した際にロンドンの地下鉄をみて東京に将来必要な交通機関はこれだと確信し、当時は誰も信じなかった地下を走る鉄道をつくるために起業を行いました。理想だけでは何も具体的な話が進みません。どの路線が最も効果的か豆の数を数えることで交通量を量ったりして事業計画を作っていったのでした。また資本や認可の件にかんして早川はコネも金もない状態でしたので関係各所をしつこく説得してしだいに賛同を得て、途中関東大震災などの困難を克服し最初の路線(浅草上野間)の実現に漕ぎ着けたのです。早川の構想では浅草から新橋経由、三田を通って最終的には横浜までの路線を考えていたようですが、地下鉄施設の一つの問題である高額な建設費など資金の限界もあり最初はたった2km程の営業路線の開業でした。しかし昔の東京は浅草、上野が大商業地域でこの開業は大成功でした。

開業に先立つ試運転の日、早川徳次をのせた電車は上野車両基地を出発してまさにこの踏切を渡って稲荷町と上野駅の間の引き込み線に入っていったのでした。早川はこの時歓喜の声を上げたそうです。地下鉄を作ると計画してから10年目の快挙でした。

安全性を鑑みて当時は木製が主流であった車両を全スチール製にして火災に備えたり、乗客が勝手にドアを開けることを防ぐために採用された自動ドア、その当時国内のどの鉄道も使用していなかったATS(自動列車停止装置)を初めて装備しました。これは打ち子式ATSといって簡単な構造だったのですが信頼性があり、つい最近の1990年代前半まで使われました。1927年の東京地下鉄道から現在の東京メトロの時代まで運転士の規律が高くこの打ち子式ATSが作動する事は本当にまれな事だそうです。国内の地下鉄では追突などの大きな事故は開業以来発生していません。国鉄(現在のJR)がこの装備を全国に展開したのは悲惨な三河島事故のあと1966年だった事をみても早川徳次の先見の明は素晴らしいものがあります。

銀座線打子ATS IMG_6663_4_5_tonemapped.jpeg 

車両や駅の意匠にも随分気を使っています。トンネルを通る暗いイメージを払拭するように車体はレモンイエローに塗装され内装も木目調にして、間接照明にして感じを柔らかくし、見た目もいいデザインのつり革を備えたりして全く新機軸の電車を走らせました。改札も路線を全て10銭にして自動改札にしました。今の自動改札の先駆けのようなものです。

駅にも地下鉄ストアなるものを作り今の地下街の元祖になりました。上野の地下鉄ビルや神田駅の須田町ストアなどに人気がありました。残念ながら現在は閉鎖、廃止されています。しかしそのコンセプトはいまのエキナカやターミナルのショッピングセンターに引き継がれている事は間違いありませんね。エキュートというものもありますね。
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浅草上野間の開業後、路線は延伸南下して新橋まで到達しました。この路線の沿線では日本を代表する百貨店が軒を並べています。浅草松屋、上野松坂屋、日本橋三越、高島屋、白木屋(いまのコレド日本橋)、銀座の松屋、三越、松坂屋など。東京地下鉄道はこれらの百貨店とタイアップして駅を作ったりしました。代表的な駅は『三越前』ですね。三越が資金を出してこの駅を作ったそうです。三越はそのかわり駅の名前に三越という自分の店の名前を入れる事ができました。銀座線の案内が三越と連呼しますし、全国の時刻表などにも三越前という名前が入ります。しかもロイヤリティーを払うこともありません。しかしこの駅は開業時は唯一エスカレータを施し駅の壁も贅沢な大理石で覆われ豪華さのイメージを際立たせています。いまでもこの駅の掃除は三越の従業員が担当しているそうです。

後日譚として半蔵門線が三越前まで開通したとき競合の東急デパートを傘下に持つ東急電車が田園都市線経由で乗り入れた時の話を。東急の車掌は図らずも三越前という競合デパートの名前をアナウンスしなければならないというジレンマに陥ったのです。苦肉の策で東急は半蔵門線乗り入れ方面とアナウンスしたとか?その後押上まで延伸されてこの問題は解決したようですが。ブランド名は大事だと肝に銘じることがらですね。この例は特許以外にうまくブランド名を広める妙手と私は思いますね。上野広小路では松坂屋前、日本橋では高島屋前、京橋では明治屋前などと今でもアナウンスされています。

IMG_6660.jpeg少し話を戻して、早川の地下鉄も浅草ー新橋間の営業を始めてから、これはいいビジネスだと他からの参入者が現れました。当時東急王国と言われる一大鉄道企業を築いていた五島慶太が東京高速鉄道株式会社をつくって渋谷から新橋まで路線を引いたのです。この会社は将来東京地下鉄道と一緒になる事を前提として発足したのですが、先に営業をおこなっていた早川としては面白くありません。その結果新橋という駅が二つ独立に出来てしまいました。どちらが相手を押さえ込むかという勝負です。紆余曲折の結果最後は統合されて一つの新橋駅になります。今でも銀座線に乗ると虎ノ門から新橋に到着する前に車掌さんが大きく曲がりますので注意してくださいというアナウンスを行いますが、これは電車が東京高速側の旧新橋駅のプラットフォームを避けて急カーブしながら東京地下鉄道ホームに入線するためです。早川徳次と五島慶太の確執のシンボルと言えましょう。いまでも当時の東京高速の駅が残されています。有名な幻の新橋駅です。

しかしこの抗争の漁父の利を得るのはこの二人ではなくて鉄道省官僚の佐藤栄作(後の第61-63代総理大臣)が指揮を執る政府でした。帝都高速度交通営団の設立。後に民営化された東京メトロ(東京地下鉄株式会社)になります。上の写真は早川徳次の東京地下鉄道株式会社と五島慶太の東京高速鉄道株式会社のシンボルマークです。お互い一歩もゆずらないライバル会社だったのです。下の写真は東京高速鉄道で使用していた車両のカットモデルです。いま地下鉄博物館で展示されています。統合後はレモンイエローの電車と緑とベージュの電車が相互乗り入れしていたのです。最終的に全てレモニエローに統一されました。

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2008年から2009年にかけて銀座線の施設と1000型車両が近代産業遺産に指定されたのを契機として2012年あたらしく1000型車両のDNAを受け継ぐ1000系車両が制作されました。2012年4月11日にデヴューしました。あらかじめ運行ダイヤが発表されていたので、銀座駅で待ち構えていたら反対方向からやってきました。急な事でうまくカメラに収めることができませんでした。しかし1編成しか走っていない電車に巡り会えた事で良しとしなければなりません。ゆくゆくは銀座線の車両すべて1000系になるそうです。警笛音フォンも昔の1000型を模した音が出るようになっています。
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さてこの物語のエピローグです。早川徳次が晩年この東京はクモの巣がはるように地下鉄が走り回るだろうと話したという事ですが、まさしくその言葉通り今の東京は地下鉄なくして交通移動が考えられない位の路線が出来上がりました。前にも述べたように早川が考えた地下鉄ストアーや十銭ストアなどいまのコンビニや100円ショップに通じるアイデアだったのですね。早川という人は常識にとらわれない革新的な考え方ととてつもない行動力を持った人だったのです。

東京メトロではいまも早川徳次を地下鉄の父としてその業績と先見性をたたえています。現在の地下鉄システムの姿を見て早川はどのような言霊を発するのかを想像するのも楽しいですね。
地下鉄路線図
さて、普段何気なくこの路線図を見ていますが、その中にこのような形態に発展させようと頑張ってきた人々の努力の賜物が見える気がします。我々がこの便利さを感受することができるという事を再考せられるプチ歴史の探訪でした。

参考資料:メトロの誕生 中村建治、地下鉄は誰のものか 猪瀬直樹 東京メトロWEBサイトなど


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