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インテルがまだ小さかった頃:遅れて来た侍の悲哀

インテルと言えばPCのマイクロプロセッサーを今や唯一製造している半導体メーカと言っても過言ではない程有名です。テレビのCMでも時々見かけるようになりました。ちょっと気になったのが下記の写真の日本版インテルインサイドのCM。

Intel_CM.jpg「僕と彼女と彼女のパソコン」編。浜田岳さん扮する編集会社のサラリーマンが下車する駅は小湊鉄道の千葉県市原市にある「さとみ」里見駅、そこからバスに乗っていく田舎の一軒家にいる作家に連載物をとってくるというお話。自由奔放に生きている(ようにみえる)美人作家に出会うという設定。作家は女優の井川遥さんです。メガネをかけると少し雰囲気が変わりますね。コンピュータがあれば別に都会にいなくても仕事ができるという事なのでしょう。現にコンピュータでフランス人と話をしています。が、それでは出来上がった原稿をメールで送ればという無粋な突っ込みも先刻ご承知なCMなのでしょう。やはり最初の出会いはFace to faceでという事ですかね。最後には例のインテルのメロディーを井川さんがパンパパパパンと歌って。。。


Three Foundersインテルも最初はベンチャービジネスとして1968年にカリフォルニア州サンタクララ市に起業された小さな半導体メーカでした。フェアチャイルド出身のロバート・ノイスとゴードン・ムーアが中核メンバーで最初はメモリーなどを製造していました。ロバートノイスはテキサスインスツルメンツのジャック・キルビー(1923-2005)とほぼ同時期に半導体を組み合わせてシリコン基板上に回路を作る集積回路(IC=Integrated Circuit)を発明しました。とくにキルビー特許はあとで競合メーカにとって大きな問題を投げかけるようになります。ノイスとムーアの後に入社して来たのが、社員番号3番のアンディーグローブ。彼もフェアチャイルドからやってきました。インテルはこの三人のサムライ達によって大きく成長を続けていくことになります。この三人はそれぞれ性格がまるで補完するように異なっています。

キルビー特許とノイス特許。これらはほとんど同時に出願されましたがキルビーが数ヶ月早かったのです。権利はキルビーの物となりました。しかし今のLSI構造から考えるとキルビーの集積回路は各素子(トランジスターやキャパシターがワイアで接続されている)に対してノイスの集積回路はプレーナ技術と呼ばれシリコン基板に実際に回路を作り込んでいくという現在のLSIと同じ形態を持っています。どちらが本当に役に立ったのか?考えさせられます。

nobel_1.jpg nobel_2.jpg 2012-06-21.jpg

左)キルビーの集積回路、中央) ノイスの考案した集積回路。(右) 現在の最先端LSI断面図。百聞は一見にしかずで図を見ればキルビーの回路は素子(トランジスター等)をワイアで繋いだ形ですが、ノイスの回路はシリコン基板の中にトランジスターなどが埋め込まれています。ノイスの方式が現在も使われている事がよくわかりますね。

さて、それではそれぞれの侍のプロファイルを:
一匹目の侍:ロバートノイス(1927-1990)
Robert_Noyce.jpg彼はプリンスとでも言うべき人でインテルを立ち上げた頃にはフェアチャイルド半導体の創始者として半導体業界では有名な人でした。スキューバダイビングやハングライダーなどを楽しみ、チームワークを好みました。とくに会社の重役達に専用ジェット機や専用駐車場、大きなオフィススペースなど特権階級のような待遇を与える事はありませんでした。シリコンバレーにその後続く起業家達の理想像となる人物でした。創業当時はノイスがインテルだったのですね。残念ながら夭逝のためにキルビーのようにノーベル物理学賞を授与される事はなかったのです。インテルミュージアムにはノイスの言葉が刻まれています。Optimism is an essential ingredient for innovation. How else can the individual welcome changes over security, adventure over staying in safe places. ノイスはテクノロジスト、起業家であり且つ業界を代表する人であったのですね。ノイスの最後の仕事は半導体業界の共同研究コンソーシアムのSEMATECHのCEOでした。


ノイスに絡む面白いエピソードを披露しましょう。 インテルの新工場の住所がCoffin Road:棺おけ通りという名前だったときがあります。 ちょうど4004プロセッサー(日本のビジコンが発注したICですね)が軌道に乗った1970年頃の話です。人事担当マネージャーのアン・バウアーズ(Ann Bowers)がサンタクララ市とCoffin Roadのイメージがよくないと市当局と変更交渉をしたそうです。候補としてIntel Way, Semiconductor Street, Memory Boulevardなどがあったそうですが、サンタクララ市から通知がきて決まった名前はBowers Avenueでした。なんと彼女のファミリーネームと同じ。ある朝の7時半にNoyceがAnn Bowersのオフィスを訪れこれはどういう意味?といったそうです。この一件以降アンバウアーズはサンタクララ市に大きな影響を及して自分の名前を会社の表通りに残したと長い間従業員に信じられていたそうです。ノイスはそのアン・バウアーズと再婚します。アンバウアーズはその後アップルコンピュータの最初の人事担当副社長になりました。アン・バウアーズは子供の数理科学教育に寄与するためのノイスファウンデーション(ノイス基金)の創始者の一人となりました。

二匹目の侍:ゴードンムーア(1929-)
Gordon_Moore.jpgフェアチャイルドでノイスと一緒に働いていましたが、ノイスの独立で一緒にインテルを創立しました。フェアチャイルドでは1963年にアンディーグローブを面接して採用しています。若手の技術者という事でもの静かな人柄のようですが、インテル設立の際は盟友ノイスとともにムーアも新会社に参画するという事がベンチャーキャピタルの一つの決め手になったという話もあります。彼が発表した論文「Cramming more components onto integrated circuits:電子回路により多くの素子を詰め込む」のなかで提唱されたムーアの法則が半導体の発展のルールを示した物として有名になっています。はじめは法則と呼ばれる物ではなくて予測のような形でしたが、それが時代が進むに連れて実際の集積回路がその通りに発展して来た事実をふまえて今ではムーアの法則と言われています。

Moores Law original Moores law actual
左) ムーアの論文に掲載されていた傾向、右)実際に発展して来た傾向
:ニュートンお法則のように必ずしも物理の原理に従って述べられた傾向ではないけれども技術の発展を示唆した物であるという理由から半導体業界ではムーアの法則と呼んでいます。

もうひとつ、ムーアの論文ではIntegrated ElectronicsとIntegrated Circuitは別の概念で話されていること。Integrated Electronicsは集積回路の電子工学というものです。 ノイスとムーアが新会社を始めるときに最初に考えた社名がNM ElectronicsでこれではNoyce-Moore電子工業株式会社ですよね。響きが古いということで結局Integrated Electronicsを会社名にようじゃないかということで一件落着。しかもこれを一言にしてIntegrated Electronics = IntEl = Intel ということになったそうです。しかし問題が勃発。Intelcoという会社が既に存在していたのです。急遽この会社名の使用権を買って(15,000ドル!)めでたく出発となりました。旧ロゴでeが少し下がっているのはelectronicsのeだからという話。
intel_logo_old.jpg  intel_logo_new.jpg
左)旧ロゴ、右)新ロゴ


三匹目の侍:アンドリュー・グローブ(1936-)
AndyGrove.jpg実質的に20年間以上インテルを動かしてきたのはオペレーティングディレクターに任命されたアンドリューグローブ(Andrew Glove)です。厳格な性格で、仕事については詳細を管理して強引に実行していく力を持っています。 たとえば彼の秘書に、「あなたは、インテルの為に働いているのであってボスのグローブのためにではない」といっていたようです。要求する仕事は相当厳しかったようですが公私の混同は全くなかったそうです。当時の秘書と言えばボスの奥さんの誕生日プレゼントを買ってくるような習慣もあったようですが、インテルの場合はそのような事が皆無であったと。ボスがこれだけ厳しいと組織も規律のとれたものになりますね。

ユダヤであったグローブは、ハンガリーでソ連戦車に火炎瓶を投げていた(と噂される)青年でした。米国に逃亡直後は英語も話せなかったのです。移民後はもてる才能を発揮しニューヨーク市立大学で化学を、その後はカリフォルニア大バークレー校で博士になりフェアチャイルドに入社、有名な著書に半導体に携わる人々ならばバイブルのように読んだことがある『Physics and Technology of Semiconductor Devices』があります。アンディーグローブは半導体物理の詳細な理解において誰よりも優れ、自己組織化能力も卓越し、自分を印象付ける能力と正当化する能力を持った優れたCOOだったのでしょう。 ノイスとムーアはよくグローブの性格を見抜いていたのですね。ノイスはスーパーセールスマンとして世界中を駆け回り、ムーアは技術陣のトップとして開発をおこない、会社そのものの運営はグローブに集中していったのです。


Physics and Technology of Semiconductor Devices (A Wiley International Edition)Physics and Technology of Semiconductor Devices (A Wiley International Edition)
(1967/01/01)
A. S. Grove

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グローブが社長兼CEOのときにインテルの歴史を変える大きな変化を決定しています。1985年、インテルは世界初のメモリーなどを世に出し自負もありましたが、日本勢の台頭によりコスト面などで窮地に陥るようになってきました。そこで面目も捨ててすっぱりメモリーからの撤退を決めました。幸いに当時世界で初めてのMPUはインテルが進んでいたのでこれに賭けてビジネスの集中をおこないました。結果は今の状況が示しています。

二つ目の危機は1994年の5億ドルのミステイクと呼ばれたペンティアムの欠陥。はじめはそれほどでもないと思われた問題が徐々に広がり始めたのです。数学者がペンチアムの欠陥をインターねとに流してから大騒ぎになりました。インテルの態度はこれは欠陥ではないとコメントしていましたが、New York TimesやWall Street Journalなどの追求もおおきくなり、IBMなども反応を始めたのでついにインテルは取締役会を開き全ての顧客に欠陥と思われるCPUを交換するという大きな決断をしました。この発表後大きな非難の波はなくなっていきましたが、これをずるずる引き延ばせばインテルは顧客の信頼の喪失という最悪のシナリオに陥る所でした。これにかかる費用は4億7千万ドルかかり、これは1994年の利益の半分以上でした。しかしその後は立ち直ったのです。最初間違いは起こして大きな損失を出したが、一番重要な信頼は取り戻せたという事ですね。

グローブは下記の著書にこの辺の事情を詳しく述べています。
Only the Paranoid Survive: How to Exploit the Crisis Points That Challenge Every CompanyOnly the Paranoid Survive: How to Exploit the Crisis Points That Challenge Every Company
(1999/03/16)
Andrew S. Grove

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ところで余談ですが、私は偶然グローブに出会った(というかニアミス)ことがあります。創業時のインテル本社があったSC1ビルディング(Boweres AveとCentral Express wayの角)のセキュリティーチェックカウンターで顧客を待っていたら、黒い革ジャンを羽織った初老の人がひょこひょこと玄関から現れたのです。自分が車を運転して来た事は間違いありません。どこかで見た顔だなと思いましたが彼がオフィスの中に消えた時セキュリティーの連中に「Andyか?」と聞いたら「Yes」と微笑まれました。ああサインでももらっておけば良かったなと思いましたが後の祭り。

遅れて来た侍:ボブ・グラハム(1929-1998)
BobGraham.jpgインテルの創業に関して陰に隠れているのが四番目の男の話。ボブ・グラハム(Bob Graham)といってノイス達と一緒にフェアチャイルド社でMarketing, Salesを担当していた人です。知識豊富でマーケティングとセールスをやらせれば右に出るものはいないという人でした。ムーアと懇意にしていたということでインテル創立時期に必要なスタッフとして請われました。ノイスも彼の能力をよく知っていました。グラハムは当時バイポーラデバイスの開発促進を強く推していました。メモリーには記録するメモリーセルとそれを制御するドライバーという回路が必要ですが、その当時はMOS型の半導体よりもバイポーラ型が優れていたのです。ノイスとムーアと雇用契約に合意したグラハムはすぐにフェアチャイルド社をやめて勤めていたフロリダの会社に退社を伝えてカリフォルニアに戻る手続をしました。

ただ退社までに通達後3ヶ月が必要でインテルへの入社は、グローブが先になってしまいました。この時間はグラハムにとっては本当に痛手でグラハムが入社した時、既にグローブの社内的なポジションは確固たるものになっていきつつありました。グラハムには二つのチャレンジが横たわっていました。彼のチームメンバーを雇う予算が少ない事と、全てのエンジニアが既にグローブの管理下にいたこと。全く遅れて来た不幸な侍といえます。ただグローブと同時に出世した優秀なひとである事は間違いなく、グローブは生産部門、グラハムは販売部門を担当していました。あるときに製品仕様に問題があり両者に壮烈な内部衝突がおこりました。結局グローブとグラハムのどちらかを選ばなくてはならなかったときにノイスとムーアはまよわずグローブを選び、グラハムは残念ながら退社していきました。

グラハムの立場は顧客には正直にリスクを明らかにするような仕様を提出すること。グローブはそれに対し、問題が顕在しない可能性が大であればそのまま訂正しない、という事でした。この点を見ればグラハムに道理があると言えますが、内部衝突のないように関わらず当時の小さなインテルには人一倍強力なリーダーシップと強い製品が要求されていてそれを押し進めるのはグローブしかいないというのが本音だったのです。尊敬するノイスからグローブの言う通りにしろと言われたグラハムはもうインテルでは仕事ができないと観念しました。ボブ・グラハムはインテル創始者の4人のうちの1人で将来を担うコアと見なされていましたが、退社後、彼の痕跡はインテルに残されていないようになっています。かれはこの後アプライドマテリアル社(Applied Materials)に入社、業績をあげて、ノベラス社(Novellus Systems Inc.)のCEOに就任、ナスダック上場達成とノベラスを一流の会社に仕上げました。SEMI(半導体工業会)ではかれの業績をたたえて優秀なセールス&マーケティングパーソンにBob Grahams賞というものを設けました。

123010-1.jpg
SEMI主催:ボブグラハム賞



今後のインテルはどこへ:

今やプロセッサーの分野では並び立つ相手もいなくなったインテルですが、創業から黎明期にかけてはいろいろな不安要素がいっぱいあったのと、社内の相克があったのですね。その苦しみを超えて現在のポジションがあるのでしょう。
HillsboroIntelRonler_convert_20120711191430.jpgしかし企業が永遠に続いていく保証はどこにもありません。イノベーションのジレンマでも述べられているように、潜在的な競争相手にたいしてどのような展開を試みていくのか?アップルのiPhoneやタブレットなどパーソナルコンピュータ以外のデバイスに主役が移っていく気配があります。クラウドのような動きも今までの分散型処理の見直しと言うことになるかもしれません。マイクロプロセッサー提供者としての限界とチャレンジをどのように考えてくのか?いまだ未知との遭遇が待っているのかもしれません。大きな普通の会社になって衰退するのか?更に上を目指すのか?

(上の写真はオレゴン州ヒルスボローのテクノロジー&製造工場マイクロプロセッサー開発の拠点)

参考文献:
Inside Intel: Andy Grove and the Rise of the World's Most Powerful Chip CompanyInside Intel: Andy Grove and the Rise of the World's Most Powerful Chip Company
(1998/11/01)
Tim Jackson

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