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免疫というのはなにもの?

最近『免疫』というものに興味を持っています。

免疫というのはどういう事か?生半可な知識ではいままで、体に侵入してくる異物を除去する機能ぐらいしか思いつかなかったのです。よくたとえ話しにも出ますが、苦手な事を何回も経験しているとあまり嫌ではなくなってきて、その場合『なんか免疫力がついたね。』とか言われる時ってありますよね。多分この場合は苦手な要素が自分に取り込まれて毒にならないようになってきたという事なのでしょうか。(多分この場合は免疫力がついたと言うよりは抗体ができたとうべきでしょう。)

しかしこの非自己を除去する機能を深く考えてみると、異物をどのように体がとらえてそれを駆除するのか?異物=『自分が持っていないもの』をどのように認識するのか?異物とはウイルス、あるいは臓器移植によって体内に埋め込まれた他人の臓器など。自己、非自己の認識は?考えれば考えるほど奥が深くなにがしかの理解を得たいと思ってすこし勉強してみようと思いました。

手元に多田富雄さんの『免疫の意味論』という本がありましたので、読んでみました。実はこの本は理学書と思われますが1993年の大佛次郎賞を取っている作品です。大佛次郎賞は日本語の散文作品として質が高い作品、人間精神への鋭い洞察を含む作品、歴史・現代文明の批評としての意義が高い作品に与えられ賞で朝永振一郎博士の『物理学とは何だろうか』にも1980年に与えられています。多田富雄さんの本は相当前に購入してあったのですが、敷居が高くてなかなか読み進む所まで意思が固まっていなかったのです。また最近その多田先生が南伸坊さんと対談をした『免疫学個人授業』というユニークな本があり、この両書を読み比べながら理解を試みました。この本は確かに難物で読後も必ずしも理解したかというと確信を持ってイエスといえないのですが、ここには私が興味を覚えた内容についてどのような印象を持ったのか少し述べてみたいと思います。

tada.jpg  免疫の意味論表紙  Edward_Jenner.jpg

写真(左) 2010年6月18日76歳、01年に脳梗塞(こうそく)で倒れ、重い右半身まひや言語障害といった後遺症を抱えたが、リハビリを続けて左手でパソコンを打ち、朝日新聞文化欄に能をテーマに寄稿するなど、意欲的な文筆活動を続けていた。
写真(中央) 免疫の意味論表紙
写真(右) 免疫の父と言われたジェンナー

常識的には、通常自己として認識するのは脳のような気がしますね。精神的な礎が脳と考えられるからです。脳が見聞きして外部とコミュニケーションをとり自分を手繰っているから脳こそ自分をあらわすつまり自己を象徴する器官であると思いますよね。

さて、ここにウズラの脳を移植された鶏(ヒヨコ)がいるとしましょう。これをキメラ(語源はギリシャ神話に出てくるライオンの頭と山羊の胴体蛇のしっぽを持つ動物)というそうです。移植後ヒヨコはその脳で物事を判断するわけですね。例えば鳴き声はヒヨコの体を通して泣く訳ですが、鳴き方はウズラの鳴き方をするのです。したがって脳を移植されたヒヨコは移植されたウズラの脳の意思の基に生きている。しかしそのヒヨコは幾日か経つと死んでしまうのです。

それはウズラの脳をヒヨコの免疫が非自己と判断して排除するからです。脳は免疫系を否定することができないのですが、免疫系は脳を否定する事ができるのです。免疫というのはどのような自己を表現するのか?一筋縄では行きません。免疫は何か主体を持った者なのか?単に免疫細胞の集合体なのか?それがなぜ自己を認識できるのか。考えると不思議な世界です。今この瞬間にも我々の体はこの免疫という何者かで守られている。多田富雄さんはこのあと脳死、移植の問題について述べられていますがそれはさておき、大きな問題はやはり自己と非自己の決定はどのようなメカニズムで決まっていくのかという命題をどのように理解(もし理解できれば)していくのかという事になるでしょう。(第1章)

免疫系にはリンパ系、血液に流れる細胞類等があるのですが、その基を作るのが骨髄。そこで作られた細胞が胸腺と呼ばれる部位で教育をうけて選別され体の中に導入される。胸腺の教育機関で合格する細胞はたかだか10%程度。90%以上は不合格(自己、非自己が認識できない、あるいは曖昧)になり死んでしまうとの事。これは単に遺伝子の命ずるままに作られた細胞が完成形という事ではなくその生成過程で生じる誤差のようなものを厳格な自己、非自己の規定で選別しているという事なのか?興味がわきます。(第2章)

免疫学を通して更にその基本にある、化学、更にそれを支えるであろう物理学の言葉を持ってはたしてこの自己を明らかにする事が可能なのか?等という大それた考え方が頭をよぎります。それに対する一つの見解が朝永振一郎先生が語っています。少し長いですが、以下に引用します。

1997年10月、日本物理学会創立百年記念特別講演において『物理学とは何だろうか』という本と同じ題目の講演で朝永さんは『しかしこの点(物理学で生物を語る可能性)について分子生物学者、例えばデルブリュックなども、結論を保留しているということをお伝えしておきましょう。つまり、まだ今、そんなことをはっきり言えないというわけです。それではどういう理由で彼らが答えることを躊躇しているのか、ステントという人の言うことを聞きましょう。この人も分子生物学者の一人で、やはりデルブリュックと同じような保留をつけております。どういう保留かと言いますと、彼は自著『進歩の終焉』という本の中で、「脳によって脳自身の働きを説明することは不可能かもしれない」ということを言っている。だが注意すべきことは、分子生物学者の言っているのは、脳についていっさいの物理的説明は不可能だとか、そこでは物理法則と異なる法則が支配しているだろうとかいうことでなく、そこはやはり物理法則の世界であっても、そのことを物理法則によって証明できないという事情が起るかもしれない、ということなのです。』この話の後、朝永先生は数学の命題に関して有名なゲーデルの不完全定理の話をされています。全てのものを数学的描写で証明できるとは限らない…。

さて話を戻して免疫学の自己に関する考察。非自己と自己は表裏一体です。自己を決めないとそれ以外のもの(非自己)は決まりません。免疫細胞が認識する自己は前もってDNAに刷り込まれている塩基の配列の表現なのか?もう既に先天的に決まっている?いや天然痘等の後天的に経験した結果生じる抗体等を見るとそうでもない。免疫系に教育学習機能があるのか?さらに別の観点から考えると自己あるいは我々が思っている個というもの、一人の人間であったりするわけですが、これは単にDNAの乗り物であるのか?我々が生きているのではなくてDNAがその子孫を永々と引き継いでいくのか?

好中球が炭疽菌を取り込む  800px-Macs_killing_cancer_cell.jpg
写真(左) 好中球(黄色)が炭疽菌(オレンジ)を呑み込んでいるSEM(走査電子顕微鏡)写真
写真(右) 写真中央のがん細胞を確認するマイクロファージ

また厄介な事に免疫システムは完全ではない事もあります。体をまもるはずがかえって免疫によって体を攻撃するのです。精密に作られた免疫系は場合によって判断ミスを犯す場合があるそうです。通常は外部から入ってくる異物に対して抗体を作りその病気を防ぎ作用をする免疫系ですが、一部に寛容な所も会って、それが微妙なバランスで自己と非自己を認識している。一旦その寛容性が崩れると自分に対しても抗体を作り攻撃を行うことがあるそうです。その結果、甲状腺異常、脳に発生する多発性硬化症など多くの難病があるそうです。糖尿病もインシュリンを発生する膵臓で免疫反応が起こりインシュリンができなくなり糖代謝ができないことで発病するそうです。免疫細胞が働くとウイルスが増殖してしまうどうしようもないAIDS等も後天的な免疫に関わる病気と言えるようです。

南伸坊さんとの会話の中で、『AIDSの気持ち』と言う章があります。AIDSを引き起こすHIVから見た事情とでも言いましょうか。HIVはどうも猿のウイルスだったようで猿の中にいるときは全く無害だった。HIVも平和だった。ある時人間が無理矢理HIVを人間の体内に取り込んだ。HIVとしては拉致されたようなもの。新しい環境(人間)で生きていく為にそれに適応するようにドラスティックに変異をしなければならなかった。生き延びる作戦が相手の兵隊(免疫)を自滅させる奇策だった。今後はどうなるか?人間を環境として生きていくHIVははたして今後は共存の道を選ぶかもしれない。ある程度は殺すが、全滅させると元も子もなくHIVの居場所もなくなる。自分が増えるのを程よく抑制し相手もバランスよく残しすべてを殺さない道に進むかもしれない。まるで人間社会の営みのような攻防を見ているようで筋書きがあるようドラマですね。

免疫というとアレルギーの話が出てきますね。喘息になったり、花粉症、アトピー皮膚炎等。これらも免疫細胞の微妙なバランスの崩れにで生成されるIgE抗体起因による病気です。この原因は分かっていない事も多いのですが、現象の一つに環境の変化があげられるのではないかと多田先生は論じています。喘息の発生率は戦後間もないときは0.8%程度、現在は3-7%であり、そもそも戦前は花粉症等は無かったのです。つい最近まで団塊の世代と言われる人たちが子供のころは鼻水をたらしていたりしてそのばい菌を駆除する為に免疫系はIgGという抗体を作って対抗していた。IgG抗体ができている所にはIgEという抗体は作られないという実験結果があるそうです。強いばい菌やウイルスを駆除するのに免疫は忙しくて弱い高原に対処するまでに至らなかったのではないかと論じられています。それが今や無菌や清潔が行き届いて、たちの悪い菌がなくなってきたせいか、花粉などに過剰に免疫系が反応しているのかもしれません。先生曰く『呼吸ができなくなってまでも、吸い込むのを拒否するアレルゲン、過剰の分泌液で洗い流してしまおうとする外界。触れただけでいらだつ皮膚。消化器そのものまでも排泄してしまいそうな嘔吐と下痢。』すこぶる過剰な拒絶反応がおこるようになってきました。ペットに対するアレルギーはよく知られていますが、人間のフケに飼い犬がアレルギーを起こすという事例もあるそうです。相互拒否の根は深いと述べられています。
注)IgEアレルギーを起こす抗体、IgG普通の抗体。両方ともタンパク質。IgEはIgGの1万分の1の微量、しかし強い働きを持っている。

もう一つ気になるのが老化の問題。病院に行くとやはりお年寄りが多い。体の中で起こっている変化。免疫の強さも生殖年齢が終わると極端に減ってくるらしいですね。もう子孫を作らないのでまるで役目を終えたようにです。ただ大きな問題は全ての機能が同じように衰退してくるのではなくてまだ元気な部分と相当くたびれてきた部分に時間差が出てくる。そうするといろいろな相互作用がおこり例えば老人痴呆性のような症状が現れてくる事もあるそうです。教育機関である胸腺が退化してしまうのです。胸腺の退化により免疫細胞の免疫能力が低下し生産量も減ってきます。また自己、非自己の曖昧さが増幅され自己の作用する抗体(上記のアレルギーに代表される)も作られる可能性も増えて、たんなる風邪にかかっても若者のように簡単に直らない事になるのではないかとかんがえられます。

さて、免疫系は全く完全という訳ではないのですが、そのしなやかさ、未知との遭遇に対する適応性はどこからくるのでしょうか?利根川博士がノーベル化学賞を獲得した研究の成果にその答えが示されているそうです。外来の敵から身を守る為には孫子の兵法ではないですが相手を知らなければなりません。あらかじめ想定したものだけですと想定外のものがきたときはその防御系は全く意味をなさなくなります。それではどのように相手を知るメカニズムを作るか?非自己の抗原にたいしてどう抗体を作るかですが、抗体を構成するいくつかの遺伝子がランダムに結合して、また突然変異して途方もない種類の抗体分子の基になる遺伝子構成が用意されるそうです。つまり無限に用意された引き出しのなかに未知の抗原に対応する抗体が作れる材料を格納しておくわけです。壮大な冗長性を持ったシステムがここにあるのですね。
220px-DNA_Overview.png



『病は気から』とう言葉は昔から言われていますが、どうも免疫学からみるとその考え方も的外れではないようです。ウイルスや病原菌はのべつまくなしに体に入ってきているので、それが全て病気になっていればもう一年中病気だらけになって生き続けていくことができません。つまり病原菌等が体に侵入してくるから病気になるのではないということ。免疫がそのひとつひとつに作用して体を守っているので、滅多に病気にならないのですね。昔の人は祈祷をしたりして体に刺激をあたえて免疫系を活性化したのではないか?ただ免疫系が賢いウイルス(遺伝子の組み換えで形を変えるインフルエンザウイルス)などをゼロから認識する間に侵入されたら病気にかかってしまう。富田先生は面白いことを言っています。天然痘のウイルスは頭が悪いウイルスだと。過去からずーと組み替えもせず同じ形態を保っている(所謂超保守主義者?)。したがて一旦免疫系に駆逐されるともう再発しない。免疫が隙を見せると侵入する輩がいてそれが病気を起こす。気がめいったり、ストレスを感じたりすると免疫細胞の量が少なくなることがあるそうですがその状態が病気になりやすいとなると『病は気から』といっても間違いではないかもしれません。

体に刺激を与えるという事は脳の力が働いているように思えます。つまり脳を中心とした神経系の働きが免疫系に何らかの作用を及ぼしている可能性が考えられます。この事はこの稿の前半で述べた脳が自己なのか、免疫が自己なのかという二者択一のような単純質問ではとらえられない何か複雑なことが起こっている気がします。現在その辺の因果関係は明らかにされていないようですが。更に言うとゲーデルの不完全定理のような今のアプローチでは説明ないし証明できない問題があるのかもしれません。脳の記述についても茂木健一郎さんや海外ではロジャーペンローズなどが本当に『感じ方』『気持ち』の理解についてまだ道のりは遠い、ひょっとしたら今我々が持っている理論等の道具で解明できるのか?というテーゼを投げかけていますね。

さてこの議論の確信である自己と非自己は何であろうか?と言う事ですが、免疫的な考え方は免疫の働き方を研究した結果、(1)人が生まれる前、生まれた後しばらくの間経験した事が自己を形成し、それ以外が非自己という考え方、(2)変化していく自己に追従して非自己を排除する自己。等があります。免疫のメカニズムを研究する過程で、厳格な自己の認識から出発したはずの免疫がどうやらそれだけでは語れないという事態が生じたようです。何か禅問答のようになりますが、自己という一貫した固定の自己は無くて変化していく自己がありその自己に追従して免疫系は作用する。とでも言うべきでしょうか?よく真実は詳細に宿るということがあります。部分の詳細に入っていくと全体が分からなくなるという事も言われますが、はたしてその全体が分からないという事にどれだけの意味があるのか?日々営まれている詳細はそれぞれの自己の現象であり大変多様的に捉える必要があるものではないかと感じます。


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