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井上靖の西域物語を読む。

40年ほど前にふるさとの小さな書店で買った井上靖の『西域物語』が書棚にいまも並んでいます。

井上靖が当時なかなか渡航が難しかった当時のソビエト連邦領西トルキスタン、キルギスタンからウズベキスタンにいたるシルクロードの西域を訪ねた紀行文で、朝日新聞の日曜版に連載されたもの。井上靖のシルクロードにたいする思い入れが感じられる作品です。

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西域物語表紙              古都マルギランのバザールに立つ井上靖

著者の手にかかるといま見ているシルクロードの姿から一挙に二千年の時間を飛び越えて漢の時代の世界が目の前に広がってくるような気がします。『西域』という呼び名は中国の西の方ということ。ヨーロッパから見ると『オリエント地方:オリエント急行が目指すアジア』。未知の世界のイメージを昔の人は持っていたのでしょうか。ほんの一部ですが、内容を一緒に眺めてみたいと思います。

物語はシルクロードの始まりとされる、漢の武帝が大宛(今のウズベキスタンのコーカンドにあったとされる古代の王国)に汗血馬を得るために派遣した張騫の冒険。今となっては8世紀のペルシャの侵攻、13世紀のモンゴルの制覇を経てその跡形も無くなっているようですが、張騫の話に端を発した西域進行は漢による匈奴対策の一環と西域各国の制覇をねらった二度にわたる遠征を誘発した。汗血馬は血の汗を流す駿馬であり、漢では天馬と呼ばれた。後の三国志にもつたわる大宛馬である。

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漢の武帝                大宛の汗血馬

次の章は『天山の湖』張騫が武帝に紹介した烏孫国の王が千頭の馬を献上して漢の公主をもらいたいという話から始まる。みしらぬ西の国の年老いた王に嫁ぐ公主の悲劇を綴る。言葉も習慣も違う遠い異国に暮らす毎日。望郷が募り漢に帰りたいと懇願するも武帝からの返事はーーーその国の俗に従え。嫁いで4年後若くしてその地で一生を閉じた。公主の詠んだ哀歌:
悲愁歌         
                                 
  
吾家嫁我兮天一方  吾が家我を嫁す 天の一方
  
遠託異國兮烏孫王  遠く異國に託す 烏孫王
  
穹盧爲室兮氈爲牆  穹盧を室と爲し 氈を牆と爲し
  
以肉爲食兮酪爲漿  肉を以て食と爲し 酪を漿と爲す
  
居常土思兮心内傷  居常土思して 心内に傷む
  
願爲黄鵠兮歸故賴  願はくは黄鵠と爲りて 故賴に歸らん
和訳:
漢の家は私を天蓋の果てに嫁したので、今はこうして異国にあって烏孫王に身を託しています、
この地はテントを部屋とし、毛布を壁として、肉を食べ、獣の乳を醤油の代わりにしています
明け暮れこの地にあって、故郷を思い心の痛まぬ日はありません、願わくは黄鵠となって故郷に飛んで帰りたい。

烏孫は天山の山ふところにある国。イシククル湖のちかく。中央アジアの遊牧民の歴史は攻防の歴史の連続なのでとおい昔の烏孫の遺跡すら存在しないが、イシククル湖の湖底には一つの都が沈んでいると言われているそうな。
この湖の近くを漢の時代から700年ぐらい経過した唐の時代、三蔵法師玄奘が天竺への旅の途中立ち寄っている。この辺は西遊記の舞台でもある。
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イシククル湖(暖かい海と呼ばれている。)    湖底で見つかった遺跡

イシククル湖の話は続く。何千年に渡っていろいろな民族の興亡を見てきたこの湖は探検家の夢を誘った。イシククル湖からはいろいろな食器、武器、人骨等が打ち上げられたりする。大きな歴史の流れに沈んでいった栄華を誇った民族の遺品が静かに湖底に眠っているのがたまに起きて我々の目に触れるのでしょう。

その次はサマルカンドの都市物語。
アレキサンダー大王27才の時、東方遠征でソグディナにはいった場所がサマルカンド、ブハラ一帯。サマルカンドはソグド人(いまのウズベク人とタジク人)の都であった。アレキサンダー大王の軍を一時的であったにしろ破った実績を持つ。城壁を持った都市国家であった。8世紀にはペルシャの征服にあい、13世紀のはモンゴルの侵略を受けた。アレキサンダー大王時代のサマルカンドはモンゴルの襲来以降地下の奥深く埋もれていて、新しい街は近くに作られた。最近になって旧サマルカンド市街が発掘調査されている。

7世紀には唐の玄奘もかの地を訪れている。大唐西域記にはサマルカンドを強兵が多く住民は礼儀があり他国の犯す所となっていない…というほどに栄えていたようです。その後8世紀のソグド人達に悲劇が襲う。アラブによる侵略である。ソグド人は勇敢に戦ったが最後は力つきて滅びた。サマルカンドも破壊された。しかしソグド人はその後アラブの中で実質的に独立国としての力を持ち始め、この民族の才能をいかしてサマルカンド、ブハラを再興していった。

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チンギスハーン

しかしその繁栄もつかの間、13世紀またも悲劇が繰り返された。モンゴル軍の侵略である。何十万のモンゴル軍に城を囲まれて籠城軍は一所懸命に戦ったけれども千軍万馬のモンゴルの敵ではなく整然と計画された都市は跡形も無く廃墟と化した。
モンゴルの後も幾多の揺り戻し、新しい勢力との戦いの歴史は続き、現代に至っている。14世紀のチムールの時代サマルカンドは重要な拠点であった。

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サマルカンド

そのような興廃にもかかわらず商人達のキャラバンは古代から近代に至るまで太くてはっきりした道から細くて切れてしまいそうな筋を経由し、永々と受け継がれている。それがシルクロード、中国語で絲綢之路と呼ばれているつながりではないでしょうか。

ST-caravan.jpg
砂漠を行く商隊

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Comment

No title

 井上靖氏の西域物語を読みました。
 難解すぎて、細かいところは残りませんでしたが、良くまとまっていたので、ウズベキスタンへ旅行するときに役立たせてもらいます。
 ありがとうございます。
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